昭和53年に右腕・大辻民樹、平成2年に左腕・平松啓亮を擁した彦根東は秋、春、夏の県大会でいずれも決勝戦に進出、近畿大会でも強豪高と競り合うなど、近年では最も甲子園に近かった。監督を務めたのは現在、県高野連副会長のOB北村雅敏さん(58)=小泉町=で、当時を含め約16年間チームを率いた。
―監督時代の野球部の様子や練習風景を聞かせてください
◇昭和51年から平成4年ごろまで監督を務め、その間の部員は30人前後で推移していました。私も運動のできる生徒を見つけては積極的に野球部に勧誘していました。
今でもそうだと思いますが、学校の狭いグラウンドにはいろんな運動部がひしめきあっていました。セカンドの後ろでアメフト、ショートの後方ではサッカー、という具合です。校庭での守備練習やノックは内野のみに限られ、外野の守備や打撃練習は週に1、2回彦根球場を借りていました。ですから練習試合はすべて相手校のグラウンドなどでやっていたため、校外慣れし、公式戦には気楽に臨めました。
―昭和53年と平成2年のチームはとくに強かったと言われていますが
◇昭和53年は比叡山が強くて秋、春とも県大会の決勝で対戦しましたが、共に競り負けました。近畿大会では、初戦で元阪神・木戸捕手を擁するPL学園に、夏の県予選決勝では膳所に惜敗しました。
平成2年は左の本格派投手・平松を主戦に、新チーム発足後の秋大会決勝で近江兄弟社を破り、優勝することができました。近畿大会では1回戦で神戸弘陵と対戦。平松は13奪三振の力投でしたが、延長13回の末に5-2で敗れました。夏の県大会の決勝戦は、甲子園常連校になりつつあった八幡商で、1点を追う9回表二死2、3塁で一打逆転のところまでいきましたが、、6-5の1点差で負け甲子園には届きませんでした。
―甲子園に出場する現在の選手たちに一言お願いします
◇みんな勉強も部活も一生懸命努力を続けてきたのでチャンスをつかめたのだと思います。甲子園では悔いのないよう戦ってきてほしいです。総合的に力があると思うので、周囲の高校との比較にとらわれることなく、持てる力を出すことだけを考えて臨んでください。
北村監督の時代は、毎年、「今年こそは、」という雰囲気でしたね。そして、毎年「今年もか、」と言うことでした。私も一応部員でしたが、いつも勉強のことが気になっていました。机の上の勉強は、よくできましたが、社会勉強や野球は、さっぱりでした。部活動も3年続けましたが、途中でやめるのは、いやだから。と言うのが本当は最大の理由です。野球部を辞めたら、高校生活ですることがなかったから。とも言える。一生懸命やるけど、腹の底から、頑張っていたとはとても言えない。3年の夏、甲子園まであと一歩と言うところまできました。その時もし甲子園が決まっていたら、退部届けを出していたかも知れません。なぜなら、ベンチ入りするのは、15人。自分がベンチに入れる可能性は、有るとも無いとも。3年と言う理由で入れたかも知れないし、実力は、後輩の方がはるかに上なので、入れなかったかも知れない。どうせ勝てない相手なら、と言うことならチャンスはある。いろいろ考えたが、退部が一番いい。と思った。でも準決勝で負けました。捕らぬ狸の皮算用。幼い頃から、ずっと上っ面だけの人生が続いています。見る目のある人には、見透かされています。
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