2009年6月16日火曜日

近江絹糸での労使対立の歴史、滋賀大学でシンポジウム

 富岡製糸場から彦根製糸場、近江絹糸(オーミケンシ)への歴史を紹介したシンポジウムが13日、滋賀大学で開かれた。近江絹糸での人権争議と、それを題材に三島由紀夫が小説化した背景を専門家が推察した。
 シンポジウムではまず、富岡製糸場総合研究センターの今井幹夫さんが、明治3年(1870)に政府による2番目の官営工場として同製糸場が設立され、同5年から創業が開始。昭和62年まで生産し、現在まで創業当時のままの姿で残っており、一昨年に世界遺産の暫定リストに登録された経緯を説明。彦根からは全国最多の732人(延べ)の子女が同工場に送られた歴史も紹介した。
 その後、滋賀大の筒井正夫教授が▽井伊直弼の墓守・遠城謙道の妻・繁子も子女として参加し子女取締役になった▽明治11年に県営彦根製糸場が平田町に開場した▽製糸用のカラン(蛇口)の製造が彦根バルブ産業の興業につながった▽明治33、34年の恐慌で同製糸場が経営破綻した―ことを紹介。
 近江絹糸については、彦根製糸場にいた夏川熊次郎ら彦根の有力者が大正6年(1917)に創設。役員の相次ぐ死や昭和恐慌で一時は経営難に陥るも、息子の夏川喜久次専務(後の社長)のもと躍進。しかし、一日15時間以上の労働や、命令厳守など「工場の軍隊化」などで「戦後の労働争議に爆発していった」と展開した。

 続いて近江絹糸人権争議研究者の上野輝将さんが、昭和29年(1954)に近江絹糸で起こった労働組合と経営者との血みどろの対立を、作家の三島由紀夫が小説(絹と明察)で取り上げたことに着目。
 上野さんは、夏川社長の経営で近江絹糸が鐘紡や日清紡など「十大紡」に迫る勢いになった背景に、▽低賃金にしていた▽労働者が逃げないよう、鹿児島や秋田など遠方の中卒の子どもを寮に入れた▽大銀行から大口の融資を得ていた―ことをあげ、「このような人権抑圧と劣悪な労働条件からの解放を求めた彦根など7工場の1万2000人の労働者が立ち上がった」と説明。「夏川社長は暴力団と組み、組合をつぶそうとしたものの、世論の圧倒的な支持を得て組合側が勝利した」と解説した。
 三島由紀夫が小説にした理由について、上野さんは「三島は自由や平等、平和などという外来思想の民主主義や女性論理への嫌悪感があり、家父長制度に似た夏川社長の経営手法への共感があったのでは」と分析。「もっと深い所では戦後の天皇の位置づけに不満を持っていたのではないか」と展開。
 一方で上野さんは、三島が小説の中で描かなかった夏川社長の仏教信仰の労働者への強制にもふれ、人権争議に加わったクリスチャンの女性の詩やインタビュー記事を読みながら、「結局は外来思想=女性論理という戦後民主主義が勝利し、三島などの家父長制度は敗北したといえる」と述べた。

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