日本中世史が専門の田端泰子・京都橘大教授が5日、大学サテライト・プラザ彦根で、豊臣政権を支えた北政所(おね)と淀殿(茶々)をテーマに講演=写真。秀吉が生きていたころと死後との2人の生き方を解説した。
田端教授は、秀吉が長浜城主だった天正2年(1574)の秀吉からおねへの手紙を紹介。町人の諸役を免除したことで百姓から町人になる者が増えたため、町人に諸役を課そうとしたものの、おねに反対されたため、免除を続けるという内容で「秀吉とおね、夫婦で協力して領国を統治していこうという姿勢がうかがえて、すばらしい」と話した。
秀吉が関白、おねが北政所となったころ、おねは朝廷との付き合いや人質となった島津家との交流を行うなど、「その役割が拡大した」と解説。一方、淀殿は文禄2年(1593)に捨丸(後の秀頼)を産み、その後、後見として表舞台に出てきたとした。
慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなり、以降、おねは京都の城に住みながら秀吉を祭神とする豊国神社(京都)に月参りをし、淀殿は大坂城で秀頼の後見となり、「このころから役割が分割されてきた」と説明。
大坂冬・夏の陣(1614~15)のころは「淀殿が大坂城内で軍勢を仕切っていた」とし、「おねは政治には関与せず、豊臣政権下での『かかさま』としての役割を貫いた」と述べた。講演は大学サテライト・プラザ彦根運営協議会が主催し約100人が来場した。
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