同遺跡は佐和山と旧松原内湖が接する低地周辺に立地しており、隣接する県東北部浄化センターの増築や国道8号米原バイパス事業に伴い平成24年度から発掘調査が行われている。今年度は8000平方㍍を対象に発掘されており、昨年12月には鎌倉時代の勧請(かんじょう)板などが出土し公開された。
発見された城郭施設跡は標高約114㍍の丘陵の尾根にあり、南北方向の尾根を分断するように掘削された敵の侵入を防ぐための堀切と竪堀を主体に、斜め方向の堀やハの字型に連なる溝群などで構成。
そのうち堀切は幅が最上部で約7・5㍍・底部で約5㍍のかなりの急傾斜。長さが約13・5㍍あり、深さが最深部で約4㍍となっている。竪堀は幅約7㍍・深さ約1㍍で、長さが約14㍍分を確認できるが、下部が後世に壊されているため元々の長さは不明。堀は幅約3㍍・深さ約2㍍、先端部では6世紀の古墳時代後期に築かれた古墳の石列を壊して整備された形跡がある。
発掘した県文化財保護協会は▽堀が6世紀の古墳を破棄して築かれている▽堀切や竪堀の表土から17世紀以降と考えられる天目椀や瓦が出土している―ことから16世紀以前に城郭施設が築かれたと判断。
「信長公記」に織田信長が元亀元年(1570)7月、佐和山城にこもる浅井家家臣の磯野員昌(かずまさ)を攻めるために、丸山城、物生(むし)山城、里根山城、彦根山の東西南北に4つのとりでと、敵の侵入を防ぐための「鹿垣(ししがき)」を築いて包囲。翌年2月に降伏させたと記されている。
このため同協会ではこれまで検討してきた構造や立地などの状況から見て、見つかった城郭施設はその時に築かれた鹿垣の一部だと分析。「佐和山城攻めの遺構が初めて明らかになった」としている。25日の一般公開の問い合わせは同協会☎077(548)9780。
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