2017年11月28日火曜日

彦根市社協がフードバンクひこね設立

 彦根市社協は、流通できなくなった食材を回収して生活困窮者などの支援団体に寄付する組織「フードバンクひこね」を設立。食材を保管するスペースを設けた彦根市総合地方卸売市場(安食中町)で23日にキックオフイベントを行った。
 食材が廃棄される「食品ロス」の削減や、市内の「子ども食堂」の実施団体などからの設立を求める声に応える形でフードバンクを結成。農家や小売業者、卸売業者などから規格外や印字ミスで流通できなくなった米や日持ちのする野菜、賞味期限1カ月以上の加工食品を、子ども食堂や高齢者サロン、生活困窮者への支援活動などを実施している団体・個人に提供する。
 市社協は市総合地方卸売市場内に約20平方㍍の特設スペースを設けており、農家などから回収した食材を保管。市外の周辺市町からの回収も受け付ける。
 市社協地域福祉課の森恵生課長(39)は「子ども食堂をはじめ支援の輪は確実に広がっている一方、生活困窮者もたくさんいる。『困った時は、おたがいさん』を合い言葉にした地域をつくっていきたい」と話している。
 市社協は食材を提供できる農家などのほか、回収や運搬、管理などのボランティアも募集。問い合わせは市社協☎(22)2821。

2017年11月24日金曜日

「国宝五城案」も並行協議を

 西村教授の講演は彦根城の世界遺産登録を進める上で、「国宝五城案」を再び俎上(そじょう)に載せる転換点にもなり得る極めて画期的な内容であった◆西村教授の講演後の質疑応答で、現市政で世界遺産を担当する山根裕子副市長は国宝五城案などシリアルノミネーションに対して慎重な意見を述べていた。しかし西村教授は日本イコモス国内委員会委員長を務め、ICOMOS副会長を歴任した世界遺産の第一人者である。そのような権威のある方の提案を差し置くことができようか◆元々、国宝案は獅山向洋市議の市長時代に持ち上がり、「彦根城と城下町」と並行して議論されてきたが、大久保貴市長(山根副市長就任)以降、国宝案は無くなったという経緯がある◆しかし今回、西村教授は「国主導による国宝五城案」を提案し、更に講演の中で「文化庁は申請があれば考えるとの意向を示している」という趣旨の発言もしていた◆彦根城が世界遺産の暫定リストに記載された平成4年以降、遅々と進まぬ今般。そして世界遺産登録への数々のハードル。現行の「彦根城と関連の歴史建造物」で遅々と進まぬ中で、西村教授は一石を投じたと言え、再び「国宝五城案」を加えて並行して協議を進めてもよかろう。(山田貴之)

イコモス国内委員会委員長の西村幸夫・東京大学大学院教授が彦根商工会議所で講演

 世界遺産登録の審査などをしているICOMOSU(イコモス)の国内委員会委員長を務める西村幸夫・東京大学大学院教授が13日夜、「世界遺産登録の傾向と対策」をテーマに彦根商工会議所で講演。彦根城の世界遺産登録について、国(文化庁)主導による国宝五城での登録を勧めた。
 世界遺産の新しい傾向として、西村教授は▽審査の厳格化▽政治化▽都市開発とのせめぎ合い▽シリアルノミネーション(複数群での登録)の増大▽文化の多様性への傾斜―などを紹介。インドで1999年に世界遺産になった「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」が6年後以降にほかの鉄道と一緒に「インドの山岳鉄道群」として登録された事例を取り上げた。
 彦根城の世界遺産登録に向けては「天守、城郭、城下町のどこまでを対象にするか」「単体かシリアルノミネーションか」「比較研究をどのように進めるか」「姫路城との関係をどうとらえるか」などの課題を列挙。日本の城(天守)の特徴として「軍事施設で大規模な木造建築だった」と説明した上で「日本の城の特徴は世界にはなく、文化の多様性の面から考えると日本型はユニーク」「日本の城は大砲が撃ち込まれたら一発で終わり。大砲が普及する頃に平和になり、大規模な木造建築は戦争がなかったことの証明にもなり、世界的に見ておもしろい」と述べた。
 さらに、西村教授はすでに世界遺産に登録されている姫路城に「国が主体となって鈴を付けては」との表現を使いながら「国益を考えれば国宝五城が良い」と提案。「姫路城と、すでに準備が整っている彦根城を軸に、証明できる仲間を入れれば良い」と語った。
 世界遺産登録を審査する組織の国内トップが国宝五城案を提案したことで、今後は獅山向洋市政時代に上がっていた同案が再浮上する可能性がある。西村教授の講演は彦根商議所による彦根ヒストリア講座の第6講として開講され、市民約50人が受講した。

2017年11月22日水曜日

昭和5年時の平塚分四郎・彦根町長や彦根高等商業学校の矢野貫城校長らの座談会記事紹介、「寄付多く彦根へ誘致」の記述も

 昭和5年(1930)時の平塚分四郎・彦根町長や、滋賀大学の前身・彦根高等商業学校の矢野貫城(つらき)校長らの座談会の様子などをまとめた当時の新聞記事の展示が、滋賀大学総合研究棟で始まった。
 滋賀大大学院経済学研究科3年の今井綾乃さん(29)=愛知県一宮市=が、昭和3年(1928)から同12年の大阪朝日新聞と大阪毎日新聞の彦根高商に関する記事を取り上げながら、彦根高商の歴史について研究。その記事を年代ごとに3期に分けて紹介しており、8月1日~10月27日には昭和4年12月までの記事を展示した。
 2期目は昭和8年までの記事のうち彦根高商に関する「お金」に焦点を絞った記事6点などを展示。そのうち昭和5年6月26日付けの大阪毎日新聞滋賀版の平塚町長と矢野校長らによる「彦根町 発展座談会」の記事では、百貨店が彦根に進出していることに対し、平塚町長が「土地の資本家が集まって進出してくる百貨店に対抗することが理屈にかなっている」と述べたり、矢野校長が「彦根は自然的に美しい城と湖を持ち町の風紀が非常によい所ですから、(中略)教育都市として最適当」と語ったりしている。
 また「座談会」記事には、彦根高商を設立する際、大津と競争したものの、多くの寄付があったため彦根に建てられた経緯がわかる内容も紹介。実際に昭和8年11月1日付けの大阪毎日新聞には、彦根高商を彦根に誘致するために寄付をした安居喜八や石橋彦三郎、伊藤忠兵衛ら当時の有力者の名前が記されている。展示コーナーでは有力者以外に寄付をした彦根の住民たちの氏名が掲載された近江実業新報(彦根市立図書館蔵)のコピーや彦根高商の刊行物も掲示している。
 ほかの記事では彦根高商が学生の学資を援助したり、就職先を確保したりしていた様子も紹介しており、昭和初期の深刻な経済状況が彦根にも及んでいることがわかる。2期目の開館は来年1月26日までの平日午前9時~午後5時。今井さんのギャラリートークが22日、12月6日、20日、来年1月20日、24日の午後0時10分~ある。入場無料。

2017年11月21日火曜日

村山たかの行灯完成披露で、井伊直弼や長野主膳、村山たか扮した市民たち袋町練り歩く

 彦根市の袋町で11日夜、彦根藩十三代当主・井伊直弼や側近の長野主膳、村山たからに扮した市民たちが、店舗を練り歩くイベントが行われた。
 滋賀県社交飲食業生活衛生同業組合が安心で安全な飲食店の袋町をPRしようと、村山たかを描いた高さ33㌢×15㌢四方の行灯(あんどん)=写真=を製作し、袋町を中心にした組合加盟店56店に設置。
 行灯の完成とお披露目を記念し、俳優のいわすとおるさんが主膳役、歌手の堀絵依子さん=大藪町=がたか役、市民団体・ひこねを盛り上げ隊小江戸実感劇団代表の藤堂正一さんが直弼役を務め、ほかの団員9人も時代衣装を着て参加。
 一行は大安駐車場を午後9時に出発し、提灯(ちょうちん)を手に太鼓をたたきながら練り歩き、行灯が設置されている袋町内の12店を訪問。各店では堀さんが持ち歌の「たか女」を歌っていた。
 同組合は「観光客らに彦根の歴史を知ってもらい、また県下最大の歓楽街の袋町が安心、安全に利用頂けることも広めていきたい」としている。

2017年11月18日土曜日

彦根ロータリークラブが県立盲学校で希望の光110プロジェクト開催、パラリンピックに水泳競技で3大会連続出場している木村敬一選手が講演

 彦根ロータリークラブは10日、来年5月に創立110周年を迎える県立盲学校(彦根市西今町)で支援事業「希望の光110プロジェクト」を開催。盲学校小学部出身でパラリンピックに水泳競技で3大会連続出場している木村敬一選手(27)=栗東市出身=の講演会などを開いた。
 木村さんは「パラリンピックから学んだもの」をテーマに講演。幼少期から体を動かすのが好きで「6歳の時に補助輪を外して自転車が乗れたが、ぶつかったり、転んだりしてけがが多かったため、盲学校在学中の小学4年の時にプールの中なら安全との母親のすすめで水泳を習い始めた」と振り返った。
 盲学校から進学した筑波大学附属盲学校では、水泳部に所属して実力を伸ばし18歳以下の世界大会に出場。「その時にこのままでは外国人に勝てないと実感し、パラリンピック出場という目標を立てた」と述べた。高校3年の時に北京のパラリンピックに出場したが、「出場した時点で満足してしまい、パラリンピックでメダルを獲得したいと思うようになり、大学への進学を決めた」と説明。
 日本大学に進学し、2012年のロンドンパラリンピックでは100㍍平泳ぎで銀メダルを獲得したが、木村さんは「人間は欲深くて、世界一(金メダル)がほしいと思うようになった」と解説。東京ガスに入社後は1日5食にするなど肉体改造に努めたといい「ごはんを食べるのは苦しかったが、体はどんどん大きくなり、外国人に負けない体を作り上げることができた」と語った。
 昨年のリオデジャネイロのパラリンピックでは5種目に出場し、50㍍自由形と100㍍バタフライで銀メダルを獲得するなど活躍。振り返っての感想としては「金メダルを獲れなかったので悔しい気持ちがあるが、戦いきったことは大きな自信になった」「何かを時には思いっきりやることが大切で、それは自分を守ってくれる大きな自信に変わってくる。この自信をたてにしながらこれからの人生も歩んでいきたい」と、在校生たちにアドバイスした。
 講演後、木村さんは本紙などの取材に「県立盲学校での教育は視覚障害者として自立できるための内容であり、本当に良かった」と感謝していた。
 この日のイベントには盲学校の生徒、保護者、城南小6年生、彦根RC会員ら計約300人が参加。木村さんの講演後には、関西盲導犬協会への支援金贈呈、盲学校音楽部の演奏、井伊亮子さんら彦根エコーオーケストラによる三重奏、庭へのハナミズキの植樹があった。

2017年11月17日金曜日

井伊直政公顕彰式 彦根駅前広場の銅像前に石碑建立

 彦根藩初代藩主を称える「井伊直政公顕彰式」が3日、彦根駅前広場の銅像前であり、彦根商工会議所青年部が設立した石碑の除幕式も開かれた。
 青年部は昭和62年に創立5周年を記念し、直政の銅像を建立。以降、城まつりパレードの行事の一環として顕彰式を開いている。
 今年は創立35周年を記念し、「彦根藩初代藩主 井伊直政公之像」と書かれた高さ1・6㍍×36㌢四方の石碑を銅像横に建立した。
 式で青年部の嶋津幸一郎会長は「銅像建立から30年が経ったが、誰の像かわからない観光客もいるようだ。彦根の玄関口を訪れる多くの観光客に知ってもらうことができればと思い、石碑を設けました」と話した。彦根商工会議所の小出英樹会頭のあいさつ、彦根鉄砲隊の演武の後には、もちの振る舞いや彦根古城太鼓の演奏もあった。

2017年11月15日水曜日

永楽屋の若手職人3人の技 宝華展で披露へ、後継者不足支援の補助金活用

 彦根仏壇の職人の後継者不足を支援するため、彦根市は仏壇製造の就労者を雇っている事業者に補助金を交付する制度(※彦根仏壇職人等後継者育成事業補助金)を実施している。そのうち永楽屋には彦根工場(甲良町)でこの制度を活用した若手の職人3人が働いており、同工場で18日から開催する「秋の宝華展」で3人の技を公開する。
 永楽屋で勤務している若手職人は、金箔押しが担当の中川茉美(まみ)さん(19)=西今町、彫刻と修復を担う中路祥子さん(25)=西今町、金箔押しと組立の小林孝之さん(31)=南川瀬町。
 中川さんは佐和山小3年生の時に授業の中で金箔押しを体験しており「すごく難しくて、職人の方の技を見て興味を持った」と職人を目指した動機を説明。「職人によって技が違っており、正解はないとわかった。色んな職人のやり方を取り入れてやりやすい方法を見つけるのが大切。これからも技術を身につけていきたい」と語った。
 中路さんは京都伝統工芸大学校の3、4年生の時に、永楽屋彦根工場で行われた宝華展で彫刻の実演のアルバイトしたのを機に関心を持ち、卒業後に同社に入社。「自分の彫りの技をもっと磨いて、価値を認められるようになって、将来は彫り師として生計が立てられるようになりたい」と意気込みを話していた。
 小林さんは親戚が彦根仏壇の製造に就いていたこともあり、30歳の時に入社。組立などをしていく中で「仏壇の構造がどのようなものか、どのような技が使われているかがわかってきた。(製造の中で)失敗することはあるが、その失敗をどのように生かしていくかは自分の心持ち次第だと思っている」と話していた。
 宝華展では中川さんが金箔押し、中路さんが彫刻、小林さんが組立の各コーナーで実演を披露するほか、中路さんが学生時代に制作した鳳凰の作品も展示する。
 ※彦根仏壇職人等後継者育成事業補助金=彦根仏壇職人の育成を目指して彦根市が平成27年度から導入。おおむね40歳以下で就労1年以内の新規就業者を雇用している事業者に、人件費の半額(上限月10万円)を最大3年間補助する制度。現在、永楽屋を含め計4人が対象となっている。
 永楽屋は18日から彦根工場で秋の宝華展を開く。大型や和風の仏壇展示、七職や修復の実演、金箔押しや蒔絵などの体験コーナーも。午前9時~午後5時だが、最終20日のみ午後4時まで。問い合わせは彦根工場☎0120(23)1466。

高宮町が彦根市との合併60周年を迎え記念の式典

 高宮町が彦根市との合併60周年を迎えたため、記念の式典が4日、高宮地域文化センターで開かれ、地元住民ら72人が出席した。
 高宮町は昭和32年4月3日に彦根市と合併。また高宮村から高宮町になった大正元年から105周年、江戸時代に中山道の高宮に宿駅が設置された慶長7年(1602)から415周年を迎えた。
 高宮学区連合自治会では合併60周年と、高宮町制105周年、中山道高宮宿415周年を兼ねた記念式典を開催。式では同自治会の大橋和夫会長が「商店街の衰退や少子高齢化、家族形態の多様化など地域の課題は多くある。高宮の発展のために今後も支援と協力をお願いしたい」とあいさつ。
 同自治会名誉会長の中村善一郎元県議のあいさつ、高宮町に彦根工場があるブリヂストン・スクリーンホールディングス・マルホの3社への感謝状贈呈、特別功労者と功労者への表彰があった。
 来賓を代表し、大久保貴市長は「魅力あるまちづくりを期待しており、市としても地元の3人の議員と力を合わせて高宮の発展につなげたい」と述べた。また高宮出身の八木嘉之市議会議長は「地元市議の3人はライバルだが、仲が良く、力を合わせていきたい。多くの先人のたゆまぬ努力により今の高宮の発展があると確信しており、先人の思いを次の発展のために受け継いでほしい」と語った。

2017年11月9日木曜日

桐生祥秀選手招き交流イベント

 陸上競技100㍍で日本人初の9秒台を出した彦根市開出今町出身の桐生祥秀選(21)=東洋大4年=を招いたイベントが5日、荒神山公園多目的広場であり、桐生選手と小中学生たちがリレーなどで交流した。
 彦根南ロータリークラブが創立40周年記念として開催し、陸上競技を学んでいる市内外の小中学生252人と彦根南RC会員、保護者の計約450人が参加。開始式で彦根南RCの高木淳一会長が「小中学生のアスリートの皆さんには桐生選手に続くことができるようがんばって頂きたい」とあいさつ。
 ウォーミングアップとして桐生選手を交えて全員でグラウンドをランニングした後、桐生選手が彦根南中の陸上部時代に練習していた広場内の芝山の「桐生坂」(通称)をダッシュで駆け上がり、桐生選手も子どもたちと一緒に駆け上がっていた。
 中学校選抜メンバーと、桐生選手を監督とした南中時代のリレーメンバーとの200㍍リレーには、当初走る予定がなかった桐生選手も急きょアンカーとして参加。バトンを受け取り走ると、歓声が沸き上がっていた。桐生選手の後ろを走っていた彦根市立東中2年の菊河隼人君(14)は「桐生選手は腕の振りが大きく、とても速くてすぐに遠ざかっていった。とても良い思い出になりました」と話していた。
 桐生選手や南中時代の恩師、同級生のトーク会で、恩師の億田明彦さんは「初めて見た時は肩まで髪があり、女の子みたいだった」と当時を振り返り、同級生の黒丸智弘さんは「中1のころは同じレベルでライバルだったが、(桐生選手は)2年生から急に伸びていった。全国大会でも頼れる選手だった」と語っていた。
 これに対して桐生選手は「褒められる関係でも無いので改めてうれしい」と笑顔で答えた上で「(桐生坂の)芝山での練習で鍛えられたことが今にある。中学校のうちは勝っても負けてもいいので、楽しんで陸上をやってほしい」とアドバイスした。
 小中学生からは「どうやったら桐生選手のように速くなれますか」「スタートした時に足を地面にするのはどうしてですか」などの質問があり、桐生選手は「トレーニングしかない。高校では技術面を学ぶが、特に中学校での下積みが大切」「足を地面にするのは最短距離で足を運ぼうと思ってするようになった」と答えていた。
 交流イベント前には彦根市子どもセンターで、桐生選手の彦根市市民栄誉賞特別賞の表彰式が開かれた。
 表彰式では大久保貴市長が「日本人初の記録は彦根市民のみならず、国民すべての誇りだ。これからも高いレベルで戦っていくことを頼もしく思っている。更なる高みを目指してがんばってほしい」とあいさつし、表彰状と記念トロフィーを手渡した。
 桐生選手は「栄えある賞を頂きありがたく思います。頑張ることで地元の彦根が盛り上がるなら、もっと盛り上げたい心がある。世界の100㍍でファイナリストになるという夢を目指して、しっかり頑張りたい」と述べた。表彰式後には市長や同級生たちとの記念撮影にも応じていた。

2017年11月7日火曜日

玄宮園内にある料理旅館の八景亭が今月30日に廃業

 玄宮園内にある料理旅館の八景亭が今月30日に廃業になる。明治時代から続いてきた店舗が無くなることに市民からは惜しむ声があがっている。
 八景亭は「玄宮園十勝」と呼ばれる園内の10カ所の名所のうち、井伊直弼らが茶席に利用していた臨池(りんち)閣の場所にある。茅葺きの数寄屋(すきや)建築で、臨池閣に増築した構造になっており、床面積約547平方㍍のうち半分以上が増築分。現在、茶席になっている鳳翔(ほうしょう)台も八景亭として利用されていたが、昭和40年代後半の火災後に市の所有になった。建物の創設期は不明だが、現店主の竹中清登(たか)さん(67)によると、曽祖父が経営していた明治・大正期は魚屋などを営み、八景亭と名付けられたのは祖父時代の昭和9年だという。
 店主の竹中さんは、インテリアデザイナーを辞めて28歳の時に帰郷し、料理の修業を経て三代目の店主に就任。以降、八景亭を守り続けてきたが、昨年2月に脳出血で倒れ、包丁が握れなくなった。また建物の老朽化もあり、廃業を決意した。
 竹中さんは75歳で店を閉じようと思っていたとした上で「何年か早かったが、いい時期だと思っている。寂しい気持ちはない」と話していた。会食などで利用していた市内の男性(54)は「八景亭は大名気分にひたることができる場所だった。無くなるのは非常に残念です」と語っていた。
 廃業後は市が管理することになり、市教委文化財課の担当者は「臨池閣(八景亭)は大規模修理の時期にある。調査した上で(増築部分の解体など)江戸時代の元の風景に戻すことを含めて検討していく」としている。
 店は休業中だが、今月5日に再開する。すでに廃業を知った人たちからの予約が入っており、4畳半、6畳半、13畳、20畳の部屋のうち、大部屋を中心に予約がとりにくい状態。18、19日のみ休み。問い合わせは八景亭☎(22)3117。

下着メーカー・美成産業のブランド美・REINE(ビ・レーヌ)の新作が完成

 彦根市後三条町町の下着メーカー・美成産業のブランド「美・REINE(ビ・レーヌ)」の新作が完成。先月17日から23日まで横浜市のそごうで新作発表会が行われた。
 同社は昨年4月にデザイナーの田中蓉子さん(京都市)と女性向けの補正下着「美・REINE」を開発。縦横に伸縮するシルクタッチの特殊素材を使用しているため、加齢と共に変化する体型を整え、若々しく蘇らせることができるという。
 新作は総レース製で更に高級感を出した。すでにカタログなどで販売しているほか、今後はインターネットでも発売。新作発表会でも好評だったという。
 経営企画部の宮脇徹部長(43)は「美・REINEの売上は今年が3500万円ほどを見込むが、新作の販売で来年は1億円を目指したい」と話している。問い合わせは同社☎(22)0371。

2017年11月6日月曜日

豊郷町出身の近江商人の本・近江の豪商・薩摩家三代記―薩摩治兵衛とその孫バロン薩摩 刊行

 豊郷町出身の近江商人や文化人として知られる薩摩治兵衛と息子、孫の生涯をまとめた本「近江の豪商・薩摩家三代記―薩摩治兵衛とその孫バロン薩摩」=写真=が刊行された。
 治兵衛は天保元年(1830)に犬上郡四十九院村で生まれ、幼名が與惣吉。数えで10歳になった頃には武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)の外池太右衛門の店に丁稚奉公。一人で野宿をしながら十数日かけて武蔵国まで向かったという。18歳の時には近江国愛知郡小田刈村(東近江市小田刈町)の織物問屋の小林家に仕え、慶応3年(1867)の38歳の時に独立して東京日本橋で木綿類の商売を開始。明治21年(1888)には東京日本橋に本店(薩摩商店)を新築し、木綿王と呼ばれるほどの豪商になった。
 治兵衛が51歳の時の明治14年12月4日に、後に二代目になる治郎八が誕生。明治33年2月に治兵衛を襲名し、2年後には大阪に支店を開業し事業拡大を図ったが、金融恐慌などの影響で昭和9年(1934)に薩摩商店が閉店した。
 二代目治兵衛の息子・治郎八が誕生したのは明治34年4月13日。東京の精華小学校の時から英語に関心があり、19歳の年の大正9年(1920)11月2日、法律留学という形で渡英。同12年4月にはフランスのパリへ移住し、翌年に帰国して東京の駿河台にフランス様式の邸宅を建設。以降、民間大使のように日仏交流に貢献し、その後もパリと東京を往復する生活を続けた。昭和4年(1929)にはパリ日本館の建設にも尽力。日本館建設の寄付の功により、薩摩父子にはフランス政府から勲章が贈られている。戦時中はパリに滞在し、日本の敗戦後の昭和26年5月12日に帰国。「バロン薩摩」として文化、芸術活動に貢献しながら自由奔放に生き、同51年2月22日に亡くなっている。
 本は「木綿王と呼ばれた男」「薩摩治兵衛商店の継承」「日仏文化交流の架け橋」「バロンサツマと私」「巴里(パリ)大学都市と私」の5章に分けて、初代治兵衛、二代治兵衛、三代治郎八(バロン薩摩)の生涯を解説。発行は芙蓉会。1400円(税抜き)。豊郷町観光案内所で販売しているほか、出版元のフォリオ(兵庫県芦屋市)で郵送販売も。

2017年11月4日土曜日

よろず淡日ギャラリーで知的障害者が制作した絵画などを展示

 彦根市日夏町の巡礼街道沿いの店「よろず淡日(あわひ)」=写真=は3日から店内にあるギャラリーで、知的障害者が制作した絵画などを展示する。5日午後2時~は茶話会もある。
 店主の疋田実さん(57)が大阪在住時に彫刻の勉強をしていて、大阪市内にある障害者の造形スペース「アトリエひこ」の企画展にも訪問。以前から障害者の造形性に魅力を持っていたため、在阪中は造形教室の手伝いをしていたという。
 よろず淡日は疋田さんの曽祖父が大正時代に開業。引き継いだ祖父が15年ほど前に亡くなった後は空き家だったが、平成26年4月末に疋田さんが移住し、平成27年8月22日に古道具や駄菓子、文具、日用品などの店として再オープンさせた。
 隣接する大正期のままの建物はギャラリーとして活用。今回はアトリエひこの障害者8人が作った絵画や彫塑の計約30点を展示、絵画は購入もできる。入場無料。展示期間は20日までの金土日月の午前11時~午後6時。疋田さんは「彼らの作品は不安の闇と清らかで美しい光を同時に感じることができる」と話している。
 5日はアトリエひこの設立当初から携わっている石崎史子さんを招いて「今、気になることを持ち寄って」の茶話会がある。茶と菓子代200円。問い合わせは同店☎(49)3890。