2009年2月17日火曜日

昭和28年センバツ出場の中村善一郎さん


 第81回選抜高等学校野球大会(センバツ)に出場を決めた彦根東高校野球部―。これまでに昭和25年と同28年にもセンバツ出場を果たしている。滋賀彦根新聞では、当時の野球部OBの皆さんや現在の野球部に関連する方々の、思い出話しや激励の言葉を連載する。第1回目は、昭和28年のセンバツにキャッチャーとして出場した中村善一郎さん(73)=高宮町=。
 ―元々は野球部ではなかったとのことですが―
◇高宮中学校の時は野球部でしたが、16歳の時に父親が亡くなったため、東高に入ってからは野球部には入っていませんでした。しかし、校内の野球大会での活躍が目に留まったのか、野球に熱心な先生が授業の度に野球部に入部するよう言われ、2年生の秋ごろにスコアラーとして入部しました。
 ―入部後、いつレギュラーになったのですか―
 ◇入部してすぐの2年生の冬にレギュラーになりました。中学時代はサードだったのですが、監督の指示でキャッチャーになりました。
 ―センバツ出場までとセンバツでの思い出を聞かせてください―
 ◇この当時の野球部は強かったと思います。前年の秋と次の年の春の大会を優勝し、近畿大会では京都のチームを破って、昭和25年以来のセンバツ出場を決めました。センバツでは、熊本の済々廣と戦い、1安打の0対4で完敗しました。私は8番キャッチャーで出場し、バックネット近くのファールフライを飛び込んでキャッチし、審判から「ナイスキャッチ」と褒められたことを覚えています。
 ―その年の夏の大会では、審判の判定を巡って混乱し、放棄試合になったとのことですが
 ◇初戦にライバルだった大津東高(膳所高)とあたり、2対3でリードされていた9回表の攻撃で、見方の走者がホームに突っ込んだ際、相手のキャッチャーが落球しセーフで同点だと思いましたが、審判はアウトのコール。私たちは抗議の意味で三本間に約2時間座り込みました。球場内は審判席にラムネのビンが投げ込まれたり、熱狂的なファンが役員席に殺到したり、彦根市警(当時)の警察官が動員されるなど混乱しましたが、結局認められず、アウトの宣告後も座り込んでいたため、0没収試合となり対9で敗退しました。
 いまから思えば、センバツに出場したことによる「おごり」があったのかもしれませんが、強烈な思い出として、私たちの心の底に焼きついています。
 ―甲子園の雰囲気は、やはりほかの球場と違うと思いますが、センバツへ出場する現在の部員たちに激励の言葉をお願いします
 ◇甲子園の観衆の多さはケタ違いです。平常心で、日ごろの練習の成果を発揮することが大切ですが、緊張してあがると思います。1勝すれば、リラックスして力を発揮できると思うので、まず1勝を目標に頑張ってください。

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