昭和29年に近江絹糸(オーミケンシ)で起こった「人権争議」の際、元県議の朝倉克己さん(74)=城町2=は、近江絹糸労働組合彦根支部長を務め、彦根工場の組合員を先導した。その10年後には三島由紀夫が小説化しており、彦根にも取材に訪れている。朝倉さんに当時の争議前後の様子や三島との思い出を聞いた(以下敬称略、聞き手・山田貴之)。
近江絹糸社長の夏川嘉久次は、労働者を「子」と思い、労働者は社長の事を「父」と思っているという昔ながらの家父長制度の考えに基づき経営をしていた。夏川について、朝倉は「生産アップを第一に考え、労働者を道具のように扱っていた。軍隊的な経営だった」と振り返る。
労使対決は昭和22年、24年、28年にもあったが、いずれも決裂。しかし昭和29年6月2日、大阪本社に「全繊同盟」の労組ができ、ストに入ったとの情報が入る。当時19歳だった朝倉らは7日午前2時に彦根でのスト決起を決意。前日、朝倉は工場の外から大阪の労組事務所に一報を入れたが、大阪で電話に出ていたのは経営陣側の社員だった。工場へ戻ると、経営陣側につかまり、隔離された。
朝倉は7日午前1時半ごろ、トイレに付き添った経営者側の社員に「もうすぐ社会が変わる」と話し、午前2時に工場の電気が消え、機械が止まると、社員を振り切り仲間の元に向かい、労組結成を宣言したという。戦いはほかの工場に波及し、9月16日まで106日間にも及んだ。
人権争議では、労使とも飛行機を飛ばして東京や大阪、名古屋などの上空からビラをまくなど「出動しなかったのは戦車ぐらい」の激しい戦いだった。経営者側は全国から暴力団を集め、彦根工場にも多くの暴力団員が押しかけ、鉄パイプで大けがをする労働者もいたという。しかし、全国で支援する募金活動や世論の味方により戦い抜くことができ、「仏教を強制しない」「教育や結婚の自由を尊重する」などの要求を経営陣は受け入れた。
「三島さんは聡明で礼儀正しい」
三島が彦根を訪れたのは、人権争議から10年後の昭和39年。その年の9月2日夜、朝倉は玄宮園内にある料亭・八景亭で、「絹と明察」の出版元・講談社からの要請で朝倉を紹介した天晨堂の細江敏と3人で食事をした。酒をくみ返すうち、三島は10年ごとに力を入れた作品を書くことにしていると話し「20代終わりが『金閣寺』で、30代の終わりがこの人権争議の作品(絹と明察)になるだろう」「50歳になったら藤原定家を書いて、筆を下ろそうと思っている」と明かしたという。しかし、三島は45歳で自決している。酒の席では、色紙にサインもお願いし、朝倉は好きだった言葉「人生意気に感ず」も書いてもらった。朝倉は翌日、三島を近江絹糸彦根工場や夏川社長宅を案内した。
朝倉は「聡明という言葉は三島のためにある言葉だと思う。年下の私にも見下すことなく、礼儀正しい人だった」と話す。三島からは、取材の礼状や年賀状が届き、朝倉はいまも大切に保管している。
激しい労使対決を経験した朝倉だが、経営者が労働者を軽視する状況については「当時と現代を比べて、派遣社員への対応など、労働環境はちっとも変わっていない。むしろ、もっと悪質になっている」「労働者も骨抜きにされて、抵抗力が無くなっている。旧式の経営のままではまずい」と話した。
「夏川社長は優しい人」
近江絹糸の元従業員が反論
滋賀彦根新聞の17日付けの近江絹糸・人権争議の記事に関して、元従業員の男性から夏川社長を擁護する意見を頂いた。
この男性は、夏川社長が昭和13年に創設した近江実修工業学校(後の近江高校)に入学。働きながら学ぶことができる学校だったため「1週間学んでは、1週間仕事をするという形式で、我々、金の無かった者には良かった」「夏川社長は非常に優しい方だった」と賞賛した。
また講演の内容をまとめた17日の記事中、地方から中卒の子どもを寮に入れて働かせていたと書かれていたことにもふれ、「食事もタダで食べさせてくれて、小遣いもくれた」「いまの時代ならどうかと思うが、当時の貧しい時代ならホームレスになっていた人も多くいただろうし、助かった人も多くいたはずだ」と話した。
人権争議については、戦後、共産党員や活動家が就職してきたことから、この男性も夏川社長を排除する空気や労組結成の動きを事前に察知。しかし、不満がなかったため、加わらなかったという。
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