肥田城の水攻めは、城主だった高野瀬秀隆が浅井賢政(後の長政)についたことから、裏切りを知った六角義賢(よしかた)が永禄2年(1559)9月19日に、城周辺に堤を築いて宇曽川と愛知川の水をせき入れた戦法をいう。
水攻めについて中井さんは、豊臣秀吉時代にあった日本三大水攻めをあげ、「肥田城の水攻めはその三大に先行する日本最初の水攻めだった」と紹介。わざわざ水攻めをした理由については「ほかの土豪たちへ見せしめをするためのパフォーマンスだったのではないか」と解説した。肥田町内に現存する土塁や堀の跡については、昭和61年度の発掘調査で江戸時代以降の遺構しか発見されなかったと説明。地元での土塁などが肥田城(戦国)時代のものとする見解に対して、「肥田城に関する遺構は一切、見つかっておらず、戦国時代のものではないとみられる」との見方を示した。
野良田合戦(野良田表の戦い)は、肥田城の水攻めに失敗した六角と、翌年の永禄3年(1560)に総勢2万5000の兵を率いての浅井などとの戦いのことで、勝利した浅井は六角義賢からとっていた名前・賢政から長政に改名。中井さんは、野良田合戦から今年で450年の年にあたるため「再評価するべき節目の年といえるのでは」と述べた。
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