歴史手習塾・第2弾「戦国彦根の城郭講座」が12日からひこね市文化プラザで始まり、長浜城歴史博物館館長の中井均さんが「佐和山城をめぐる攻防戦」をテーマに講演=写真。「現代の彦根の基礎を築いたのは彦根城ではなく、佐和山城だった」と話した。
中井さんはまず、元亀元年(1570)の織田信長による佐和山城攻めを取り上げ、信長が城の周囲を鹿垣(ししがき)=柵=で囲み、取手(とりで)を構える戦法を採用したと紹介。「これは後々の信長軍の城攻めの常とう手段で、佐和山城攻めは先駆的な事例として注目できる」と解説した。
天正10年(1582)の本能寺の変後の佐和山城については、豊臣秀吉の家臣・堀秀政が城主となり、翌年には堀尾吉晴が入り、「近世の城としての佐和山城が築かれたのはこの時期だった」と説明。石田三成が入ったのは天正19年が有力視されているが、「すでに完成していた佐和山城に入っただけで、三成のつくった城ではなかった」と述べた。
関ヶ原の合戦により三成が亡くなった後、佐和山城には彦根藩初代藩主・井伊直政が入封したことについては、「井伊家は一度も城を変えていないというが、井伊家にとって最初の城は佐和山だった」と展開。江戸初期の古絵図に後の彦根城が佐和山城と記されていることをあげ、「いつのまにか近代になって佐和山は彦根市民にとって嫌われる存在になった」「現代の彦根の基礎を築いたのは佐和山とその城下である」と述べ、市民に正しい認識を求めた。
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