彦根城内には約1200本の桜がある。これらのうち9割以上を占めるソメイヨシノは、元彦根町会議員(昭和8年~同12年)の吉田繁次郎(以下、繁次郎)=写真=が昭和9年(1934)2月に植えたのが最初とされている。しかし、ほかにも大正時代初め~後期にかけて何らかの品種の桜が城内に数百本単位で植えられていたことが滋賀彦根新聞の取材で明らかになった。市教委文化財課では「大正時代に城内に植えられた桜があったのかは確認できていないが、古木が残っているのは確かだ」としている。【山田貴之】
台風の日もリヤカー乗り見回る
繁次郎は明治20年(1887)生まれ。繁次郎の五女・山岡定子さん(79)=大薮町=(写真)と孫の寺村邦子さん(56)=尾末町=によると、繁次郎は、現在も立花町に残る「ござれ食堂」で、すし屋や旅館業、食堂などを営んでいた。彦根町議を務めていた昭和8年に皇太子殿下(現・明仁天皇)がお生まれになったことから、その祝いを兼ねて城内とその周辺を桜でいっぱいにしようと、翌年2月、46歳の時にソメイヨシノの苗木1000本を植えた。
桜は害虫に弱いため育てにくいこともあり、資金集めの際には「育つはずがない」など皮肉も言われたが、約2カ月かけて何とか当時の金額で大金の1200円を集めたという。繁次郎は店を妻・キミに任せ、自身は現在の邦子さん宅(尾末)の以前の建物があった敷地内に置いていた苗木を、2、3人の友人たちと運んで一緒に植えたという。
場所は内堀沿いを含めた城内と金亀公園のほか、中堀沿いと旧外堀沿いなどで、残った苗木は一部の芹川沿いにも植えられたが、その後、引き抜かれるなどの嫌がらせも受けた。昭和8年に生まれた定子さんによると、幼稚園児のころ、尾末町の家から金亀公園などまで繁次郎に手を引かれて散歩に行き、子どもたちが桜の枝を折ったりしているのを見て、注意した後、くやし涙を流していたという。
キミは50歳代で死去。繁次郎はその約4年後にてつと再婚。60代半ばのころに倒れた後は足が不自由になったが、その後、ほぼ毎日、雨や雪、台風の日もリヤカーの上に乗って、てつに引かれながら城内などの桜を見て回ったという。昭和12年に県知事から表彰状、同28年に彦根観光協会長から感謝状が贈呈。同32年に70歳で亡くなっている。
なお、ござれ食堂は現在も孫の滋さん(62)が経営しており、「ござれ」という名称は昭和初期の店の電話番号が「530」だったため、客からの提案で繁次郎が名付けたという。
「大正2年 金亀公園に植樹」
当時の新聞、内堀沿いにも
繁次郎が植えたソメイヨシノは、昭和20年前後の戦中期に金亀公園がサツマイモ畑にされたことや、同34年の伊勢湾台風、テングス病などの病気で、半分程度が無くなったとされる。
城内ではほかに、昭和53年12月に市民から寄贈されたヨシノザクラ(ヤマザクラ)の苗木250本、同54年12月に市民からのソメイヨシノ300本と八重桜200本の苗木が補植され、同57年3月には彦根商工会議所青年部が桜(品種不明)200本を植樹。ソメイヨシノは樹齢60~70年とされ、樹齢80年ほどになる繁次郎が植えたソメイヨシノが現在、どれほど残っているのかは不明。
また市教委市史編さん室の管理データによると、京都日出新聞が大正11年3月14日付で「彦根中学(現・東高)から彦根高等商業学校(現・滋賀大)までの内堀沿いに桜を植える計画がある」とする記事を掲載。また朝日新聞が大正15年2月17日と同20日付で「城内の黒門口から大手口までの土手に300本、内堀沿いにヨシノザクラ70本を植える計画が決まった」と報道。
さらに京都日出新聞は昭和12年3月15日付で、その年の2月11日の彦根市制施行を記念し「24年前(大正2年)に金亀公園に桜を植えた八田宗三郎が桜500本を寄贈し、市は長曽根公園に植樹」と報じている。
つまり、これらの報道が正しいと仮定すると、内堀沿いや内堀の土手、金亀公園には大正時代にすでに何らかの品種の桜があったことになる。実際に邦子さんによると、繁次郎も「ソメイヨシノを植えるころ、すでにヤマザクラがあった」と話していたという。
樹木医の川崎昭重さん(76)=平田町=や市教委文化財課によると、繁次郎が植えたころの樹齢80年ごろのソメイヨシノを見つけることは難しく、山崎郭一帯にあるほかの品種の桜は樹齢80年超の古木だという。
大正時代に植えられたという桜は何の品種で城内にあるのか、繁次郎が植えたソメイヨシノは何本残っているのか、彦根城またはその一帯の桜の謎の解明が急がれる。 【山田貴之】
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