2012年7月31日火曜日

彦根工業高校の生徒ら被災地でかまどベンチ製作へ

 県立彦根工業高校の生徒たちが8月2日から3日間、東日本大震災の被災地・岩手県宮古市を訪れ、地元の中学・高校生らと一緒に防災用かまどベンチを作る。
 彦工では平成20年度からかまどベンチ作りを市内などで進めている。彦工の田中良典教諭(43)が昨年夏と今年2月に兵庫県内で行われた防災教育の研究会で、岩手県立宮古工業高校の教員と知り合ったことをきっかけに、津波被害のなかった津軽石中学校内にかまどベンチを作ることになった。
 彦工からは田中教諭のほか、いずれも3年生の森亮太郎君(18)・森京志郎君(18)の双子の兄弟も参加。宮古工業高や津軽石中の生徒と教員、地元住民ら総勢約30人で、2日に基礎部分の掘削・基礎コンクリート作り、3日に座板や鉄鋼の製作、4日にレンガ積みをしてかまどベンチ(横幅約1・8㍍、高さ約40㌢、奥行き約60㌢)を完成させる。
 田中教諭は「学校や地域との交流を深めるほか、彦工方式のかまどベンチ作りの特徴である『人と人とのつながり』も強めることができれば」と話している。

2012年7月30日月曜日

若葉小で育てた被爆アオギリ 子ども国会へ持参し一時避難していた被災地児童に渡す

 全国の子どもたちの代表が参議院本会議場に集まる「子ども国会」が29、30日の両日行われる=本紙6月20日付け参照。滋賀県からは若葉小6年の津野あみるさん(11)=写真右=ら3人が出席するが、津野さんは校内で育てた「被爆アオギリ」を持参し、東日本大震災後に福島県いわき市から彦根へ一時避難していた市川晴仁君(11)に手渡す。
 被爆アオギリは広島の原爆にも耐えて後世に伝えられているアオギリのことで、若葉小では鳥取県倉吉市の平和・人権団体「鳥取ピース・クロス」代表世話人の池原正雄さん(66)から「二世」の種をもらい、昨年4月に津野さんら当時5年生の児童と市川君、ベトナムから来日していたベトちゃん・ドクちゃんのドクさんと一緒に校庭にまいた。そのうち11本分が高さ約30㌢に成長しており、今年4月にまいた7本も約10㌢に育っている。
 震災後、介護士の仕事で忙しい両親と離れ、いわき市から彦根の親戚の家に一時避難していた市川君は約2カ月間滞在。津野さんは子ども国会で、「市川君がいつも笑顔で逆に元気を与えてくれたこと」「復興のために私たちができること」などを話す。
 子ども国会へは津野さんと担任の今村力(りき)先生(28)が被爆アオギリを持参。一緒に植えた昨年の苗をいわき市から来る市川君に手渡すほか、衆参両議長にも今年の苗を1本ずつ贈る。市川君は帰郷後、いわき市立泉北小学校の校庭に植える予定。
 子ども国会には滋賀県代表として、彦根から津野さんのほか、城西小5年の野口七海さん(10)も参加。今月19日には前川恒廣・市教育長に2人であいさつに訪れた。
 兵庫県明石市から昨年 彦根に引っ越してきた野口さんは「ドキドキしているけれど、思っていることが発言できるチャンスをもらい、学年みんなの代表としてしっかり話したい」。津野さんは「笑顔は共通の言葉ということを伝えたい。国会で発言できるなんてなかなかできないので、滋賀県、小学校の代表として堂々と発言したい」と話した。
 子ども国会初日の29日には3回の子ども委員会があり、計150人が3項目ごとに意見の発表・交換をし、提言を議決。翌日には2度の本会議が開かれ、「子ども国会宣言」が採決される。

パナソニック シェーバー新製品LAMDASH(ラムダッシュ)彦根工場で発表

 パナソニックは25日、彦根工場(岡町)で製造するメンズシェーバーの新製品「ラムダッシュ」の説明会を行った。「メイド イン 彦根」をキャッチフレーズに全国販売されるほか、2000人限定のハードケースには彦根仏壇の技も活用している。
 昭和37年に操業が開始された彦根工場では国内で唯一、シェーバーの開発から製造までを一貫して行っており、国内向けに供給。部品製造の元となる金型作りから製造管理、検査まで、繊細な「匠」の技能を用いている。
 新製品は5枚刃シリーズ4機種。接触圧力の分散化の実現で肌への負担を減らしたほか、全自動洗浄充電器の設置面積を3割削減した。9月1日から発売。
 ケースには、彦根仏壇の錺(かざり)金具師・中川豊章さんと蒔絵師・吉田真一郎さんによるチョウの絵柄と製品名「LAMDASH」が金箔でほどこされている。シェーバーの購入者を対象に、8月22日から来年1月10日までに計4回の抽選があり、計2000人の当選者にプレゼント。
 説明会には、市長や彦根仏壇事業協同組合の宮川孝昭理事長、彦根商議所の北村昌造会頭らが出席。ひこにゃんも来場し記念撮影に応じていた。

2012年7月28日土曜日

鳥人間コンテスト2012 間寛平さんも2年連続出場 放送は8月27日

 鳥人間コンテスト選手権大会が28、29日の両日、彦根市の松原水泳場で行われる。35回目の今回は28日午前8時~の人力プロペラ機タイムトライアル部門に7チーム、滑空機部門に20チーム、29日午前6時~の人力プロペラ機ディスタンス部門にオランダからを含む11チームが出場する予定。
 タレントの間寛平さんらのチーム「吉本百周年」も28日の人力プロペラ機部門に登場。機体の補助には南海キャンディーズの山里亮太さんとしずちゃんこと山崎静代さん、ココリコの遠藤章造さんが担当、機体の製作にはジャルジャルや銀シャリら若手芸人が携わった。
 放送は8月27日午後7時~読売テレビ系列で。

2012年7月27日金曜日

彦根の殿様文化を打破するには

 小生は21日、花しょうぶ通り商店街の力石での「談話室『それぞれの彦根物語』」の話し手に招かれ、「彦根の殿様文化を打破するには」をテーマに解説した。
 まず殿様文化とは何かについて、江戸時代に一つの家が一つの藩を担ったのは珍しいこと、昭和28年5月から平成元年5月まで井伊直愛さんが市長を務めてきたことを紹介しながら、現代まで続く「彦根の根本的な体質」を来場者の皆さんと一緒に考えた。
 来場者からは▽排他的である▽保守的な考えが強い▽自分で動き出そうとしない―などの意見があがった。小生はその原因について、「彦根(城)」というブランドに対して無意識的を含めて高いプライドがあり、そこから生じる排他的、保守的な体質が「殿様文化」と呼べるのではないか、と説明した。
 また来場者の中には、「殿様」的な人が行政にはいないため、殿様文化とは言えないのではないか、との意見もあったが、小生は「確かに現在は殿様はいないかもしれないが、殿様文化とは市全体の総合的な体質を言うのであって、その文化は存在するといえる」と回答した。
 彦根の重要施策の一つ「観光」についてもふれ、築城400年祭と開国150年祭で、少しずつ「民間主導型」へ改善しているとしながらも、▽長浜の町衆文化と彦根の殿様文化▽長年の彦根城頼りの観光施策―などにより、「まだまだ長浜と比べると劣っているのではないか」と指摘。彦根の殿様文化の更なる改善による観光をはじめとした各政策の振興を願った。
 打開策については、住民主体でまちづくりを目指す市民団体「誰のまちやねん彦根」などの活動の輪が広まることと、橋下徹・大阪市長(並みとまでは言わないが)のようなリーダーシップのある先導者が現れることを求めた。
 さて話し終えての感想だが、「殿様文化」への不満を抱いている市民は少なくなく、誰かが言い出さなければいけない問題でもあった。小生は記者という、時に嫌われ役にもなる仕事に就いているため、今後もお呼びがかかれば、こういった議論、討論の場には積極的に参加したい。また、弊社としても主催のフォーラムや紙面・ネット上での企画を考えたい。なお今回の模様は主催の滋賀大学地域連携センターなどのホームページに近くアップされる。【山田貴之】

甲冑着て自転車タクシー乗って彦根城観光と、甲冑姿の武者が城内で「おもてなし」

 NPO法人五環生活(彦根市中央町)は23日から、甲冑(かっちゅう)を装着したままで自転車タクシーに乗って彦根観光ができるサービス「リキシャで快適、赤備えでお城観光 夏の巻」を開始。また21日からは五環生活のメンバーが甲冑姿になって彦根城表門前などに登場する「『神出鬼没』赤備えの御(お)もてなし・夏の巻」も始まった。
 甲冑は彦根観光協会所有の赤備えで2領分を用意。9月2日までの平日(火曜以外)限定で、五環生活の事務所で着替えを行い、リキシャに乗って彦根城内を巡る。体験無料だが、乗車料は2000円。中学生以上の男女。体重90㌔ぐらいは甲冑にすき間ができる。申し込みは五環生活の目片貞明さん(26)1463。
 甲冑姿の「武者」は城内のほか、城下の商店街や彦根駅前などに「神出鬼没」し、観光案内や記念撮影に応じる。9月2日までの土日の正午前後。

ゑびすくん銀座芝居小屋で銀座ディナー開始 まちづくり語り合おう

 一緒に食事をしながら彦根市銀座町を中心にしたまちづくりのアイデアを出し合う「銀座ディナー」が、21日から同町のゑびすくん銀座芝居小屋で始まった。
 彦根銀座街商業協同組合の加盟店はピーク時が105店だったが、現在は45店まで減少。同組合では組合員とその家族らをメンバーとし、メンバーの友人・知り合いをビジターとして、一緒に夕食をとりながら銀座街などの振興策を毎週第3土曜日に話し合うことに。
 安居秀泰理事長は「銀座街以外の学生からお年寄りまで幅広い方に参加してもらい、今後の新しい展開につながっていければ」と話している。
 食事と飲み物(アルコール・ソフトドリンク)付きでメンバー1000円、ビジター1500円。追加の飲み物は300円。次回は8月18日午後7時~。申し込みは木・日・祝日以外に銀座街事務所(22)0466。
 彦根銀座街商業協同組合はロンドンオリンピックに出場する日本選手をみんなで応援するため、ゑびすくん銀座芝居小屋に150インチ以上の巨大画面を設置する。設置日時は、サッカー男子予選「対スペイン戦」の26日午後10時~、陸上競技の8月4日午後5時~同9時、サッカー男子決勝の11日午後10時~、男子マラソンの12日午後6時半~。飲み物、つまみの販売も。参加自由。問い合わせは銀座街事務所。

2012年7月26日木曜日

皇太子殿下が滋賀ご訪問 滋賀県立大学もご視察

 皇太子殿下が23、24日の両日、湖国入りされ、23日には彦根市八坂町の滋賀県立大学をご訪問された。
 24日に大津市の県立芸術劇場びわ湖ホールで開かれた献血運動推進全国大会へのご臨席を兼ねてご訪問。23日は午後0時半ごろに県大にご到着され、大田啓一学長の先導のもと、交流センターの入り口で獅山市長や杉本君江市議会議長らの出迎えをお受けされた。
 センター内では嘉田知事から県勢についての説明をお受けなられた後、県大の地域貢献プロジェクト「近江楽座」について、学生たちからの説明をお聞きになっていた。
 殿下はこの後、東近江市のてんびんの里や重要伝統的建造物群保存地区の五個荘をご訪問。24日は草津市の県立琵琶湖博物館をご視察された後、献血運動推進全国大会にご臨席された。

夢京橋キャッスルロードで打ち水 ひこにゃんらも

 彦根市の夢京橋キャッスルロードで、季節の風物詩「打ち水」が行われており、初日となった大暑の22日には宗安寺前で、浴衣姿の女性や子どもたち15人とひこにゃんらゆるキャラたちが、桶の水を手やひしゃくですくいながら道路にまいた。
 打ち水は周囲の気温を2度程度抑える効果があるとされ、彦根夢京橋商店街振興組合(40店)では平成18年から、「水道水を使わない」というルールを設けて、風呂の残り水などで行っている。
 初日にはひこにゃんも応援に駆けつけ、ひしゃくで水をまいていた。通り沿いでは観光客ら約100人が見学した。処暑の8月23日まで各店舗前で行われている。

ひこにゃん殺陣ショーに登場 華麗な刀さばきで成敗

 彦根城内では22日、「彦根城でサムライを極める」があり、天守前での殺陣(たて)ショーにはひこにゃんも参加した。
 市民有志らによる関西復権プロジェクトと彦根市が開催。午前中の殺陣ワークショップには東京から兵庫までの70人(うち女性6割)が参加し、鐘の丸広場で京都東映剣会の殺陣師の指導のもと、刀の使い方や殺陣の仕方を学んだ後、天守前に移動。
 天守前でのショーでは、女性が男2人に襲われている場面でひこにゃんが登場すると、約200人の観客から歓声があがり、ひこにゃんが巧みな刀さばきで成敗すると=写真、拍手も沸き起こっていた。
 この後、観客への殺陣の指導と披露、参加者によるデモンストレーションがあった。午後には8月25日上映開始の映画「るろうに剣心」の大友啓史監督によるトークショーも西の丸三重櫓内で行われ、申し込みのあった150人が聴講した。

2012年7月24日火曜日

青木八右衛門の刺繍展 近江刺繍・彦根繍など愛荘町立歴史文化博物館で

 明治時代に彦根や愛荘で刺繍(ししゅう)を手がけた青木八右衛門(1849~1913)を紹介したテーマ展「美の造形―描かれた刺繍」が、愛荘町立歴史文化博物館で開かれている。
 青木は愛知郡北蚊村(愛荘町蚊野)生まれ。公職に就きながら、孤児や貧しい子どもたちの働き口のために私財を投じて愛知川に製紙工場を創設。刺繍商品の海外需要の拡大を予想し、彦根に移住後の明治26年(1893)に「貿易刺繍」という名の外国人向けの商品を開発し成功を収めた。
 貿易刺繍には日本の風景がえがかれた物が多く、「湖東」の印も入っていた。窓かけやテーブルかけ、屏風、衝立などがイギリスを中心に海外に輸出された。青木は二代目・八右衛門(本名・増吉)と一緒に刺繍技術の向上に努め、明治38年には職人育成のための私立彦根工芸学校を今の京町3丁目あたりに開校。翌年には愛知川分校(愛知川工芸学校)を設置し、同40年には製品の完成時間を短縮させることも可能にした。この前後には第5回内国博覧会やセントルイス万国博覧会、日英博覧会にも出品している。
 工芸学校はいずれも明治後期に廃校となったが、その技術は郡立愛知実業学校(現・愛知高校)に受け継がれている。近年までは「近江刺繍」として愛荘町を代表する産業の一つだった。また貿易刺繍は子孫に引き継がれ、平成11年には「彦根繍(ぬい)」として県伝統的工芸品の指定を受けた。
 同博物館では、青木が学校創設に向けた申請書類や博覧会での賞状のほか、近江刺繍や彦根繍など計35点を展示。午前10時~午後5時、9月2日まで。休館は月火曜。入館料は高校生以上300円、小中学生150円。問い合わせは同博物館☎0749(37)4500。

2012年7月23日月曜日

彦愛犬1市4町の広域ごみ処理施設の建設候補地で説明会

 彦愛犬1市4町の広域ごみ処理施設の建設候補地の一つになっている彦根市海瀬町のかいぜ寮でこのほど、地元住民への説明会が行われた。本紙が先月23日付けで報じて以降、市がこの問題を公表したのは初めて。
 彦愛犬の各首長と彦根愛知犬上広域行政組合管理者で構成する湖東地域一般廃棄物処理広域化事業協議会が、新たなごみ施設の必要性や候補地になった経緯、調査内容を説明するため開催。
 当日は同協議会会長の獅山市長、同組合職員、コンサルタントら8人が出席し、候補地の海瀬町と三津町の住民計約80人に説明。事務局の同組合職員によると、住民側からは「健康」や「生活環境」への悪影響を心配する声があがったほか、地元住民によると、「隣接町からも反対の声があがっている」「今後のスケジュールは?」「(適合地かを)評価する26項目の点数を公表してほしい」など反対意見が相次いだという。
 今後の調査予定や次の説明会時期、建設開始年月について、同組合では「候補地が決まるまで未定」としている。

2012年7月22日日曜日

中島一さんしのぶ ひこね市文化プラザでのお別れ会に420人

 彦根市の元市長で先月11日に亡くなった中島一さんをしのぶお別れ会が18日に文化プラザであり、市民や市議ら約420人が参加した。
 お別れ会では主催者代表で中島さんの長男・康(やすし)さん(57)=京都市=があいさつ。中島さんが5月下旬に文化プラザで倒れ、救急車で彦根市立病院に運ばれた経緯を説明し「(市長時代)両方の建物とも設立に携わった場所。幸せな死に方だったと思う」と時折、言葉をつまらせながら話した後、「中島一という人間が生きて、そして死んだ。人の生き様、死に様は生死を見ないとわからない。自分自身の生き方、死に方を見つめる機会にもなった」と述べた。
 その後は中島さんが市長に当選した際のインタビューの放映、国会議員や彦根市長、大学時代の仲間らからお別れのあいさつ(代理含む)などがあった。ロビーには生前の写真や著書も展示され、来場者が見学していた。

2012年7月21日土曜日

アダルトサイトの相談最多 滋賀県消費生活センター平成23年度集計

 滋賀県消費生活センターは、平成23年度の相談件数と内容を発表。アダルトサイトや出会い系サイトなどデジタルコンテンツに関する相談が全体の17・1%を占める2143件で最多だった。
 相談件数は前年度比399件減の1万2542件。そのうちアダルトサイトの相談は、デジタルコンテンツ全体の6割を超え、20歳未満の未成年者を含めて各年代で突出して多い。主な事例では、「うっかり有料アダルトサイトに入ってしまい、年齢確認、『次へ』を押したら契約完了になり、9万9800円の請求が来て解約できない」、「ネットゲームをしている時に画面が動かなくなり、マウスを動かしていたら色んな画面が出る。再起動するたびに、請求と連絡先が表示される」など。
 ほかにも、配当を約束し投資を募るファンド型投資商品が215件と全体の7位に上昇しているほか、高額当選をうたった海外の宝くじなどが98件の11位と増えている。
 高齢者の割合も年々増加傾向にあり、昨年度は前年度比33件増の2776件で全体の22・1%を占める。内容としては、ファンド型投資商品が増えているほか、屋根や水回りの修理などや未公開株・社債への投資などに関する訪問販売・電話勧誘販売が増加している。
 同センターでは「どんな些細な事でも疑問に感じたら連絡してほしい。解決の糸口が見つかるかもしれない」としている。問い合わせは同センター☎(23)0999。

体罰は悪なのか

 大津の中学生自殺の問題に関し、15日付の各紙は学校側が生徒の自殺する前に女子生徒から「いじめ」の情報を受けたものの、15分の会議で「けんか」と結論付けたことを1面で取り上げていた。
 小生の少年時代や取材などの経験から、(議員や公務員、サラリーマンなどと同様に)教師もピンからキリまであり、現代は優れたピンの方が寡少であるといえよう。そのピンからキリの境界の基準の一つが、子どもへの「愛情」と教育への「情熱」であり、「けんか」と判断した大津の中学校の教師たちは教育委員会同様 公務員的な事なかれの教師であり、キリの部類に入るのであろう。
 なぜこのような体たらくな教師たちが増えたのか。確かに一人一人を見ると、愛情や情熱を感じる教師はいる。しかし教育委員会と保護者の板挟みにある学校という組織で見た場合、上層部や組合におびえ、生徒や保護者に配慮する―、そういった戦々恐々と教壇に立っている教師がいるのも事実であろう。 
 小生の少年時代は、教師に物を言える子どもはおらず、保護者も限られていた。わんぱくだった小生ら悪童は、廊下に立たされたり、胸ぐらをつかまれたり、ほおをひっぱたたかれたり、尻を竹刀でたたかれたり、今ではタブーにもなった「体罰」を教師から日常的に受けていた。
 学校教育基本法第11条では「校長および教員は、懲戒として体罰を加えることはできない」―と定めており、「一応に」禁止してはいるが、小生としては過去の大半の体罰に愛情を感じ、感謝をしている(ただし、教師自身の感情を抑えるためや威厳を保つための「暴力」的な体罰もあったのは事実だが)。
 いじめに関しては、小生の回りでも小中学生時代、いじめがあり、特に加害者への教師の指導は厳しかった。そこには体罰もあり、そのお陰か、いじめから暴行までに至る事案はなかったと記憶している。
 子どもは、身体面は徐々に成長していくが、精神面は未熟であり、「人間」に成り切れていないともいえる。その精神的弱さのほか、ストレスや孤独感のはけ口がいじめる行動につながっているのではないだろうか。
 その子どもたちの弱さを補うのが教師(大人)の厳格さであり、その最終手段として体罰があげられよう。体罰=悪だと、短絡的に結び付けるのではなく、愛情ある教育の最終段階に体罰が用いられることに、小生は賛意を示したい。【山田貴之】

2012年7月20日金曜日

五環生活前通りかかった彦根東高生がリカンベント試乗 目片貞明さん所有の

 彦根地域おこし協力隊員でNPO法人五環生活スタッフの目片貞明さん(37)=佐和町=所有の自転車・リカンベントに、彦根東高2年生の田中真央君(17)=米原市=が試乗。「自転車じゃないみたい」と感想を話していた。
 リカンベントは、寝そべりながら前輪の上にあるペダルをこいで走らせる自転車。目片さんが所有する自転車13台のうちの1台で、五環生活の車庫に置いている。
 田中君は中学生時代から自転車好きで、専門雑誌を読んでリカンベントを知っていた。本屋に立ち寄る途中に中央町の五環生活の事務所前を通りかかり、ガラス越しに見学していたところ、目片さんに声をかけられて試乗することになった。
 運転を終えた田中君は「いつもはママチャリなので自転車じゃないみたいだった。空を見ながら走れるのが最高だった」と笑顔で語っていた。
 目片さんは「リカンベントなどさまざまな種類の自転車があるので、今後もより多くの人に乗ってもらえる機会をつくりたい」と述べていた。試乗の問い合わせは五環生活へ。

2012年7月19日木曜日

オオトックリイチゴもうすぐ果実

 彦根城の天秤櫓近くのオオトックリイチゴ(市指定文化財)が果実を実らせつつある。
 オオトックリイチゴはバラ科キイチゴ属の一種で、ナワシロイチゴとトックリイチゴの自然雑種。発見者は日本の植物学の父とも称される牧野富太郎(1862~1957)と、イチョウの精子を発見したことで知られる平瀬作五郎(1856~1925)。市教委文化財課によると、彦根城以外では知られていない固有の植物だという。
 牧野が明治27年(1894)11月に、伊吹山で植物採集をした帰りに彦根城に立ち寄り、表御殿跡(現・彦根城博物館)で発見。同34年7月と翌年6月に、彦根尋常中学校(現・彦根東高)に在職していた平瀬が牧野の依頼で標本を作成。牧野は新種と判断した。
 彦根城博物館内の方は非公開だが、平成元年に株分けされた天秤櫓近くは公開されている。同20年7月に誤って一部が切断されたが、木の根元に腐葉土を散布したり、挿し木などで対処し再生した。平成19年1月25日に市指定文化財になっている。

2012年7月16日月曜日

教育委員会 改革論

 大津市内の中学校で生徒がいじめを苦に自殺したとされる問題で、市教委の隠ぺい体質が全国の批判の的になっているが、何もこの体質は大津だけに限らず、事なかれ主義の代表格である教育委員会という組織に蔓延っているといえ、抜本的な改革へ本腰を入れるべきである。
 教育委員会は教育分野の専門家で組織され、議会の承認を経て首長が委員を任命。各自治体の職員や現役教員による教委事務局と合わせ、教育行政を担っている。
 取材などで教委職員を見てきた小生の分析として、教育委員会は自治体の教育内容や学校の情報を一元的に管理できるといった利点がある一方で、独立性が高過ぎて聖域化された位置にあるため、情報の隠ぺい体質があり、教育内容に世情とのずれが生じ、学校の独自性の無さにも繋がっているようだ。
 今回の大津の事案が皮肉にも前記の悪しき体質を明らかにさせたが、更には、生徒が自殺した後のアンケート結果の重大な言葉を見落とすという社会常識が欠如した資質さえもあるようだ。
 これらはすべて、金太郎飴のような人間の創造を目指す文科省下の末端組織であるが故の必然的な結末であるといえ、このような時代錯誤の教育委員会を改革するのは政治の介入でしかない。
 大阪維新の会代表で橋下徹大阪市長は昨年11月の市長選マニフェストで、「硬直化した教育委員会任せの学校教育を抜本的に見直す」と明記し、▽保護者や住民参加による学校運営委員会で地域の声を教育に反映させる▽市長が教育員会と協議をして目標を設定する▽校長、副校長を内外公募する▽学校運営について校長に予算要求権を与える―など斬新な政策を掲げ、現に取り組んでいる。
 つまり橋下さんの言わんとすることは、生ぬるい公務員的な事なかれではなく、粒粒辛苦を重ねてきた民間人による発想を教育に取り入れるべきだ―ということである。小生も大いに支持したい。
 さて、いじめについてだが、人間社会には子どもにしろ、大人にしろ、いじめはあり、根絶は不可能だといえよう。大人の世界はさておき、子どもの教育現場では、いかにいじめを早期に見つけ、暴行に至らないようにするかが重要である。
 これはより身近にいる現場の教師の役割であるが、大津の事案ではアンケート調査で「先生は注意をしたが、最後には笑っていた」、「見て見ぬふりをしていた」という生徒のコメントも公表されている。次号では、教師がいじめの加害者といかに向き合えば良いのかを考えたい。【山田貴之】

2012年7月15日日曜日

彦根中学校の生徒 高宮花火の準備と後始末に参加

 高宮納涼花火大会には、地元の彦根中学校の生徒たちも事前準備と後始末に参加する。
 主催者の高宮商工繁栄会では会員の高齢化や人手不足により運営が困難になり、平成16年に彦根中学校に生徒の手伝いを要請。以降、希望する1~3年の生徒がぼんぼりなどを設置する事前準備とごみ拾いなど後始末に分かれてボランティアで活動している。
 今年は全校生徒382人のうち、事前準備に12人、後始末に29人が作業にかかる。両方に参加する生徒を合わせると延べ約50人になる
 そのうち、いずれも3年生で事前準備の加藤優伽さん(14)は「花火大会に来られる人みんなに楽しんでもらえるよう がんばって用意したい」。
 西尾梨奈さん(14)は「今までお世話になった地域の人たちに、少しでもお役に立てることができれば」と話していた。
 また後始末をする脇坂流生(るい)君(14)は「これまでボランティア活動をしたことがなかったが、100回記念ということで、この機会に参加してみようと思った」と語っていた。

高宮の無賃橋 江戸中期は「有」賃橋 天保3年に無賃橋に

 旧中山道沿いの犬上川にかかる無賃橋(正式名・高宮橋)がいつ作られたのかもはっきりした記録は残っていない。
 最も古い記録として、元禄15年(1702)の馬場家文書によると、「問屋、庄屋など18人の高宮村の役人が高宮橋から得られる徳分を個人に売り渡す」と書かれており、橋賃がとられていたことがわかる。ほかに明和4年(1767)の文書では「人馬通行用の丈夫な橋が架設されたが、幕府役人の通行時のみに使用され、普段は片付けておく簡易な橋だった」と記されている。
 そんな中で天保3年(1832)に、高宮宿の有力者、江畑茂平、上田与三右衛門、馬場新蔵、馬場庄蔵らが「無賃橋」の建立を目指し、橋賃を徴収する権利・高宮橋株を買い取り、無賃の橋がかかった。現在の橋の両岸には「『むちんばし』、『天保三年』」と彫られた標石があるが、これは建立当時のものとされる。
 江戸時代後期の橋の姿を描いた宿場絵図もいくつか残っており、板を架けただけの仮橋から、構造が複雑になっていく経過が読み取れる。
 明治時代に入ると、「橋銭受取候」(明治8年・1875)や「『高宮川橋銭掲示札』を大津(県庁)に送った」(同10年)などの報告書があり、無賃が維持できなかったことがわかる。
 明治13年からは県に新しい橋の建設を求めて募金活動が開始。同15年には公費の補助を受けて新しい橋が出来たが、翌年以降、洪水で度々壊されている。同25年に全長約125㍍・幅約3・6㍍の木造の橋が作られ、同29年の洪水で被害にあったが、県による修復を重ねて約40年間使われた。
 昭和5年(1930)、高宮町議会は老朽化した橋の新設を県に申請。鉄筋コンクリート造りの全長約117㍍・幅約6㍍の橋がこれまでの橋の上流部分に建設され、「高宮橋」と命名された。竣工式は昭和7年9月12日で、夕方からは高宮橋竣工祝賀第5回全国煙火競技会が開催された。
 完成した当時を知る地元住民の文章によると、「作業員がセメント、砂利、水を加えて、スコップで交互にリズミカルに流し込む作業を何回も繰り返していたのを覚えている」と記している。
 その後の洪水による被害は昭和28年と同40年で、特に40年の時には橋脚が破損し通行できなくなった。同52年に橋脚の補強工事が行われた際には、石の地蔵が発掘され、「無賃橋地蔵」として現在も橋のたもとに祀られている。同62年には中学生の通学用として高宮橋側道橋が架設された。【山田貴之】(参考文献=「新高宮町史」、「高宮の軌跡」)

彦根と高宮の合併劇 議会解散・リコールなど対立激しく

 昭和28年(1953)に町村合併推進法が公布されると、滋賀県は町村合併促進委員会を設置し、高宮町と河瀬村・亀山村を彦根市へ編入合併させる計画案を提示した。
 昭和25年に日夏村、同27年に鳥居本村を吸収していた彦根市は、県からの提示を受けて、同31年9月30日に河瀬村・亀山村との合併を果たした。
 一方で高宮町は、古くから宿場町として栄えてきたことによる高いプライドや彦根市へのライバル心から、合併に対して賛否が分かれ、激しい対立が続いた。
 町と町議会では、反対議員の辞職、町長不信任案可決、町議会解散、賛成派による町長リコールなど混乱を極め、町議会選挙では16人の議員のうち11人の賛成派議員が当選した。
 そんな折りの昭和32年1月22日、しびれを切らした県は高宮町に、3月末までに合併をしない場合、知事権限で住民投票を行うとする勧告を行った。月末には町長が辞職し、翌2月の町長選で賛成派の北川長一郎が無投票で当選。その年の4月3日に高宮町は彦根市へ編入した。

2012年7月14日土曜日

第100回記念 高宮納涼花火大会

 第100回記念 高宮納涼花火大会が14日午後8時~彦根市高宮町の無賃橋近くで行われる。彦根市との合併55周年・高宮町制施行100周年も兼ねている。
 会場では、午後7時過ぎに笑福亭鉄瓶が本部席に登場し、花火師へのインタビュー、来場客への話しかけを行い、同7時40分~花火師ガイドのもと基本的な花火の観賞会、メッセージ花火、点灯式の後、同8時~打ち上げ開始となる。
 スターマインを中心に、仕掛け花火や変わり花火など計3500発が夜空に打ち上げられる。花火作りを手がける柿木(かきのき)花火工業(長浜市)によると、今年は100周年を記念し、花火玉一つずつをバージョンアップしたほか、曲に合わせて連続で打ち上げる音楽花火を取り入れるという。
 花火大会は午後8時50分に終了する。荒天時は15日に順延される。交通規制は午後7時~同10時。有料観覧席は2000円。問い合わせは高宮商工繁栄会☎0749(22)2075。

高宮花火大会の歴史 明治後半に行者堂の行事か高宮神社の夏祭りで開始

 今年で100回目を迎える高宮花火大会だが、いつ始まったのかはわかっていない。昭和の戦時中と戦後は中断しているため、明治後半だとみられる。
 高宮花火大会は、最初は地元の行者堂の行事として実施され、その後、7月10日の高宮神社の夏祭りを祝って開かれた説がある。いずれにしても湖国の梅雨明けを迎える時期に合わせて、毎年、県下で最初に開催されている。
 昭和3年(1928)からは高宮商工会が主催となり、高宮青年団の協力を得て、全国煙火大会という名称もサブタイトルで使っている。
 昭和7年には、無賃橋の竣工を祝って、全国煙火大競技会と銘打たれて、県内各地からの400人超の寄付によって盛大に催された。当時は不況のまっただ中で、暗い雰囲気を何とか吹っ飛ばそうという思いが県民にあったとみられる。同11年6月の滋賀銀行高宮出張所開設を祝っての煙火大会もあった。
 昭和20年前後を知る住民の文章によると、「戦時または終戦後しばらく、花火大会は休止され、昭和25年に復活したと記憶している。当時も橋の上には多くの見物客で賑わっていた」と振り返っている。
 なお、高宮商工会は昭和34年に高宮商工繁栄会に名称が変更されている。

ひこねなつまつり応援券発売

 かき氷の引換券や彦根市内店舗で使える割引券が付いた「ひこねなつまつり応援券」の販売が始まった。
 市民有志による「ひこねのまつりを盛り上げよう委員会」(小幡善彦委員長)が昨年に続いて企画。応援券には8月1日の花火大会と総おどりでのかき氷券2枚と、市内10店舗が協賛した1000円食事券、10%割引券などが付いている。
 応援券は1枚1000円で、一部は彦根の夏のイベント開催資金に寄付される。1000枚限定。販売場所はアルプラザ彦根サービスカウンター、エフエムひこね、彦根観光協会、彦根駅前観光案内所、小幡温水商会で。
 小幡委員長は「一緒に彦根の夏祭りを盛り上げていきましょう」と、協力を呼びかけている。問い合わせはエフエムひこね☎(30)3355。

2012年7月13日金曜日

彦根城天守前広場に涼みスペース ミスト噴射

 この季節の恒例となった涼み処が14日から彦根城天守前広場に設けられる=写真は昨年。今年で6回目。約40平方㍍分によしず張りの日よけが設置。約20カ所から水が霧状に噴射される。日よけの外よりも体感温度で5℃ほど低いという。9月23日まで。

近江鉄道彦根駅東口のほほえみ園 電車内にほほえみパーク新設

 彦根駅東口に保育園(ほほえみ園)を開設している近江鉄道は、子どもたちが電車内で遊べるスペース「ほほえみパーク」を新設。8月4日までの毎週土曜日に無料体験を受け付けている。
 同社は昨年7月に同園を開設したが、遊べるスペースの拡大や電車のPRを兼ねて、近江鉄道ミュージアム内に置いている電車(500形)1両分の車内を改装。長さ16・1㍍×幅2・8㍍のスペースに、ままごと、絵本、落書き、つり輪の各コーナーとフリースペースを設けた。一部の座席もそのままになっている。
 対象の子どもは0歳~6歳。無料体験は毎週土曜午前10時~1時間。申し込みは前日までにほほえみ園☎(22)3332。

2012年7月12日木曜日

坂東三津五郎さん「彦根城が一番好き」世界遺産推進講演会で

 歌舞伎役者で城好きとしても知られる坂東三津五郎さんが7日、「粋な城めぐり『彦根城』」をテーマに滋賀県立大学で講演。「彦根城は全国の城の中で一番好きだ」と絶賛した。
 坂東さんは物心が付き始めたころから城好きで、舞台デビューした翌年の7歳の大阪公演終了後に初めて彦根城を訪れたことを公表。「うれしくて、うれしくてたまらなかった。天主前広場ではしゃぎ回っていたことを覚えている」と話した。
 彦根市民会館での巡業の際は毎回、館内に当時あった食堂でハヤシライスを食べていたことや、映画「武士の一分」やネスカフェのCMで彦根城内に訪れた際のエピソードを紹介。玄宮園でのCM撮影で故・井伊直愛さんと一緒だったことについて、「本当はうれしい事なのだけど、おそれ、おののいていた。しかし、井伊さんは優しく、目に見えないオーラで包んでくれた」「(井伊さんは)殿様顔で、その藩主と藩主の庭で一緒にコーヒーを飲むことができて、天にも昇る気持ちだった」と述べた。
 彦根城と彦根のまちについては、この日の午前中に城内を散策したことを明かしながら、「天守、櫓など全体の雰囲気が築城当時のまま残っていて、まさしく理想。城を取り巻く風情、城とまち(城下町)、人のあり方が残っているのは全国でも珍しい」と解説した。
 彦根城の世界遺産に向けては、「彦根と言えば『井伊』の殿様。一つの家が続いたのは国宝四城では彦根城だけで、当時の大名でも珍しい」「城と共に生きてきた皆さんを含めて世界遺産になるよう、これからも彦根を愛し、次の世代に伝えていけるよう努力してほしい」と語った。
 講演後には、中井均県立大准教授との対談もあり、「江戸時代は桜の木はなく、松だった。城と桜は似つかわしくない」「城に登る時には攻める側と守る側の視点に立って」などの持論が展開された。
 坂東さんの講演会は彦根ユネスコ協会と市が世界遺産に向けて彦根城の魅力を市民に再認識してもらおうと企画。約500人が聴講した。

2012年7月10日火曜日

大隈重信の帽子 彦根市立図書館に 後の彦根町長・堀部久太郎に寄贈

 明治・大正時代に内閣総理大臣を務め早稲田大学の創設者でも知られる大隈重信(1838~1922)がかぶっていた帽子(シルクハット)が、彦根市立図書館に保管されていることがわかった。一部の市民の間では大隈が来彦した際に忘れていったとされていたが、滋賀彦根新聞の取材で寄贈していたことも明らかになった。
 江戸時代の名残を消すため明治6年(1873)に廃城令が打ち出され、彦根城内の一部も解体され始めた同11年、明治天皇の巡幸に同行していた大隈は彦根城の美しさにひかれ、天皇に保存を懇願。これにより、彦根城は現在の形のままで残ったとされる。
 日出(京都)新聞の明治32年6月3日付によると、大隈は総理大臣を辞職した翌年の明治32年6月1日にも、総選挙を控えた党員仲間を応援するため彦根を訪問。正午からの楽々園での歓迎会に出席した後、彦根城に登り、午後5時に列車で東京へ帰っている。
 大隈の帽子については、一部の市民の間で楽々園か彦根城に忘れられたもの、と伝えられていた。しかし、図書館に保管されていた帽子の近くには、大正14年7月28日から同15年9月3日まで彦根町長を務めた堀部久太郎が、昭和13年4月17日付けで書いた記録文も添えられる形であった。
 それによると、「(堀部が出馬した)大正6年の総選挙の時に大隈から帽子をもらい、大隈が本好きだったため、図書館に寄贈する」と書かれている。なお当時は首長が図書館長を兼任していたため、堀部は第5代目(大正14年7月28日から翌15年8月31日まで)館長も務めている。
 大隈の帽子が図書館に保管されていることは図書館や市史編さん室の職員、一部の市民しか知られておらず、また大正時代に寄贈されていたことも今回初めて判明した。市教委文化財課は「課としても大隈の帽子が図書館にあることを初めて知った。貴重なものであるのは間違いない」としている。
 【大隈重信】佐賀藩出身。明治維新では大蔵卿・参議など歴任するが、いわゆる明治十四年の政変で失脚。翌年、立憲改進党を結成し、その年の10月に東京専門学校(現・早稲田大学)を創設。黒田清隆内閣で外相を務め、安政五ヵ国条約の改正に尽力するが、反対派に爆弾を投げられて右足を切断する重傷を負う。同31年6月に板垣退助らと憲政党をつくり、6月30日には内閣総理大臣となり、初の政党内閣(通称・隈坂内閣)を発足。組閣から4カ月後に辞職し、同40年に政界を一時引退するが、第一次護憲運動の際に復帰し、大正4年(1914)には第二次大隈内閣を組織。その年の7月に第一次世界大戦が起こり、翌年10月に内閣を総辞職し政界から完全に引退。同11年1月10日に早稲田で死去。

2012年7月8日日曜日

頼りない民主党へ4

 民主党を離党した小沢一郎は、次の新党名を「国民の生活が第一の党」を軸に調整しているという。国民をバカにするのも程々にするべきだ。
 小沢が新党結成に関わったのは、新生党(1993年)、新進党(94年)、自由党(98年)に続いて、今回で4度目となる。そのため、小沢の挙措進退にいちいち驚く国民もおらず、支持するのも少数派であろう。
 なぜなら、小沢は政策よりも「政局」、国民の生活よりも「権力闘争」―に重きを置く政治家であり、それに騙され(続け)る国民はいないと信じるからである。
 小沢新党は、次の衆院選で「脱原発」と「反消費増税」を訴えるという。自民党時代に科学技術政務次官を務め、東電会長を務めた元経団連会長が小沢を囲む財界人の会の代表世話人だったことはあるが、原発については脱原発の声が高まっている最近までほとんど発言してない。
 一方の消費増税については、著書「日本改造計画」(93年)で「消費税を10%にする」と明記し、その年の8月の細川連立政権で唱えた「国民福祉税」は7%に引き上げる内容だった。だが、自由党時代の98年の参院選では「消費税率を(5%から)3%に戻す」と訴え、民主党代表時代の2007年の参院選では「国民の生活が第一」をスローガンに掲げて大勝。その二枚舌ぶりを発揮している。そして、財源確保策として「劇的な予算の組み替え」をあげて、(党代表を退いた後の)09年8月の衆院選で勝利し政権交代を果たしたことは記憶に新しい。
 先の衆院選で掲げられた民主党のマニュフェストが夢物語であり、実現不可能な虚偽の政策を並べていたことは、同党の幹部さえも認めている。(小生個人的にはマニフェストなどといういい加減な「約束事」は不要だと思うが)そのマニフェストの甘いニンジンに食いつき、騙された国民の多くも素直に反省すべきだが、小沢やその時の代表だった鳩山由紀夫の罪は重く、政治の世界から即刻、退場するべきである。
 彦根出身のジャーナリスト・田原総一朗は「小沢さんの政治はまだ終わらない」と話していたが、良識的な感覚からすれば、小沢の政治家としての使命または寿命は終わったと断言して良いだろう。
 さて前置きが長くなったが、小沢の離党により、民主党の瓦解が始まったわけだ。(小生は政権交代直後から指摘していたが)、この方向性は必然である。いずれにせよ、民主党は国民を騙したのだから、早々に信を問うべきである。 (以上敬称略)【山田貴之】

キリンビール 滋賀工場に自家発電設備

 キリンビールは多賀町の滋賀工場に自家発電設備を設置し2日から稼動を開始。3日には報道陣を招いて公開した。
 電力不足が懸念されている関西地区で関電からの受電量を削減するため、今年1月から着工していた。経費は約7億円。
 発電能力は3650㌔ワットで、同工場のピーク時電力の6割程度がカバーでき、関電管内の神戸工場、舞鶴工場を含めると3割程度の削減になるという。
 滋賀工場でしか製造していない商品も数種類あるため、計画停電時には自家発電装置も動かなくなり、供給に影響が出てくる。同社では「停電にならないように(関電側)と交渉したい」としている。
 同社は国内に9工場あるが、8工場で自家発電設備を導入済み。滋賀工場以外は東日本大震災以前に設置されている。

2012年7月6日金曜日

地域交流センター・おひさま 障害者と健常者の交流の場オープン あじさいの家共同作業所

 NPO法人あじさいの家共同作業所(彦根市平田町)が重度の心身障害者向けに大薮町にオープンした「地域交流センター・おひさま」は一般開放されており、一画には喫茶やランチができる食堂も設けられている。
 平田町の作業所には、企業での就労を目指す障害者が通っているが、就職が困難な重度の障害者にも働ける場を提供しようと施設を新設した。建物は敷地面積約895平方㍍に建てられた鉄骨1階建ての延べ床面積約351平方㍍。
 食堂のほか、多目的室、更衣室、トイレ・風呂、看護室などがある。通所する障害者は、ドクダミやハーブなどが入った入浴剤作り、ネギ・ハーブ・パセリなどのミニプランター栽培の簡単な作業を行う。運営には地元住民も協力するほか、作業所の障害者も接客などの手伝いをする。
 食堂は、営業時間が午前9時~午後2時。飲み物のほか、モーニングセットや日替わりランチも提供する予定だが、オープン日は未定。
 理事長の野瀬ミヨ子さんは「地域の人たちの協力を得ながら、障害者と健常者との交流の場にしたい」と話している。問い合わせは「おひさま」☎0749(24)4555。

2012年7月5日木曜日

小中生対象のジュニア歴史テナライ塾開講

 子ども向けの歴史講座「ジュニア歴史テナライ塾」が先月30日から始まった。文化プラザが歴史の面白さを知ってもらおうと企画し、年間12回開く。
 初回は「歴史を学ぶ楽しさ、おもしろさ」をテーマに市立図書館であり、市内外の小中学生と保護者計63人が受講。稲枝中の社会科担当で「12歳から学ぶ滋賀県の歴史」の著書の一人・久保田重幸先生(45)が、井伊直弼について教科書に書かれている内容と書かれていない功績などを紹介した。
 後半では彦根市立図書館の職員から、世界で最初にできた図書館や市立図書館の歴史についても学び、非公開の図書館内の書庫や移動図書館を見学した。
 次回以降の講座テーマは、▽7日=彦根の今と昔を探る「今につながる彦根の歴史」(彦根商工会議所4階)▽29日=戦国時代の近江を知る「なぜ、近江を制するの?」(文プラ)▽8月4日=「彦根の戦国武将・石田三成」(同)▽12日=佐和山登山。いずれも午前10時~。参加費各回300円。申し込みは文プラチケットセンター☎(27)5200。

2012年7月4日水曜日

船舶事故想定し訓練 警備艇・ひらが救助と消火

 琵琶湖でのレジャーシーズンに合わせて先月30日、彦根市松原町の彦根港一帯で、船舶事故を想定した訓練が行われた。
 県警水上警察隊や彦根署、彦根消防本部など12団体から約60人が参加。観光船とモーターボートが衝突し、出火した観光船から1人が落下したことを想定した訓練では、衝突後に警備艇の「ひら」が駆けつけ、落水者の救助と消火作業をした。
 ほかにモーターボートから人が落水したとの訓練もあった。見学に訪れた城北幼稚園の園児や保護者約30人は時折、歓声をあげながら訓練を見守っていた。

2012年7月3日火曜日

鮒くん注目メニューに 新鮮魚提供の居酒屋・一平ちゃん ippei chan

 彦根駅前商店街の旭町にさきごろオープンした居酒屋・一平ちゃん(ippei chan)で、ふなずしをくん製にした「鮒(ふな)くん」が注目メニューになっている。
 店長の望月一平さん(34)=大薮町=は大学卒業後、静岡市内の居酒屋や魚屋、割烹料理屋で働き、平成22年3月に彦根へ帰郷。八日市の料理屋での勤務を経て、今年4月17日に開店した。
 「新鮮な魚を提供したい」との思いから、静岡や鳥取などの漁師から直接仕入れており、刺身や魚料理は日ごとにメニューが違う。この時期はスズキや真アジ、岩かき、穴子の料理をそろえている。
 琵琶湖で捕れる魚も出そうと、ふなずしをくん製させた「鮒くん」を今月初めからメニューに入れた。同品は米原市のオフィスイブキが企画し、高島市のスモーク工房杣人(そまひと)が作った商品。ふなずし特有の臭みを和らげており、ふなずしの苦手な人でも食べることができるようにしたという。
 一平ちゃんでは5切れ900円で提供。日本酒各種もある。開店は午後5時~午後11時。月曜休み。問い合わせは同店☎(27)0999。

2012年7月2日月曜日

小和田哲男氏 戦国武将はなぜ戦ったか、ひこね歴史手習塾で

 戦国時代史の第一人者で静岡大学名誉教授の小和田哲男氏が27日、「なぜ戦国大名は戦うのか」をテーマに文化プラザで講義を行った。
 小和田氏は戦国時代の始まりの時期について、北条早雲が伊豆に攻め入った明応2年(1493)をあげ、「幕府の権威失墜が戦国争乱の始まりで、この討ち入りが幕開けだといえる」と述べた。以降、鉄砲伝来の天文12年(1543)までを第1段階、織田信長が今川義元を攻めた元禄3年(1560)の桶狭間の戦いまでを第2段階、信長が殺された天正10年(1582)の本能寺の変までを第3段階、豊臣秀吉による天正18年の小田原攻めまでを第4段階―だとして紹介した。
 戦国大名と家臣との関係については「謀反や裏切りが当然の時代で絶対的な関係ではなく、家臣をつなぎとめておくために常に恩賞を与える必然性があった」と説明。家臣たちが戦った理由については、恩賞欲しさによる一所懸命の論理と、後世に「家」を残すために武名(家名)をあげることにあったとした。
 戦国大名の国家観については「国家とは『領国』と『家』のことで、中央(京都)とは別に、今で言う地方分権を狙っていた」「地方ごとに領域を広げていったから戦いが終わらなかった」と解説。「その流れを絶ったのが信長の『天下布武』で、当時の公家・武家・寺家による支配体制(権門体制)を崩し、武家中心の世を作ろうとした」と語った。
 小和田氏の講義は、ひこね市民大学講座・歴史手習塾の中で開講され、約130人が受講した。