2009年2月27日金曜日

辻番所、紙本著色 関ヶ原合戦図など彦根市指定文化財に

 彦根市教委文化財課は25日、芹橋地区に残る辻番所や関ヶ原合戦図など4件を市指定文化財に指定したと発表。これにより市指定文化財は67件となった。新しい市指定文化財の概要は以下の通り。
 【旧彦根藩足軽組辻番所】
 旧芹橋12丁目の中央にある善利組の足軽組屋敷・旧磯島家住宅の前庭南側に設置された建造物。約7・3平方㍍のスペースに、2方向に分かれた見張り窓が備えられており、城下への侵入者のチェック機能を果たしていた。江戸時代後期の建物。
 江戸末期の古絵図などでは、善利組屋敷だけで20棟、ほか4組を含めた全体では36棟が確認されており、ほとんどが通りの辻に位置する屋敷に設けられている。各組ごとに近隣住民が交代で通い、「辻番」の業務に就いていたとされる。
 【旧彦根藩足軽組屋敷(善利組・旧磯島家住宅)】
 辻番所を備えた屋敷で、主屋は幅約8・2㍍、奥行き約11㍍の中2階形式。門をくぐると、左に前庭、その奥に辻番所があり、主屋には土間や玄関、座敷、納戸、台所がある。江戸時代後期の建物。
 辻番所と合わせて、すでに一部改修されており、新年度から本格的に解体・調査に入る。
 【旧彦根藩足軽組屋敷(善利組・林家住宅)】
 旧芹橋15丁目の芹川に近い位置に現存する。通りに面して格子戸と板戸からなる木戸門を構え、周囲が板塀で囲まれている。主屋は幅9・1㍍、奥行き4・5㍍の広さに、土間、玄関、座敷、台所などが設けられている。中2階の棟木には天明7年(1787)に地鎮祭が営まれた祈とう札がある。
 足軽組屋敷の市指定文化財は、太田家(平成16年指定)、中居家(同18年)を入れ4件目となる。
 【紙本著色 関ヶ原合戦図】
 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦が描かれた図。縦159㌢×横364・6㌢での6曲1隻の屏風で、左下に「大館□雪」、「宗信」の印がおされている。大館宗信の詳細は不明だが、幕末期に狩野派の絵師が描いたとされる。
 向かって右側が東軍、左側が西軍で、上部には伊吹山系も見られる。右隅に家康本陣、左隅に石田本陣があり、家康側には井伊直政を中心とした井伊家の姿も。構図は東軍の勝利がほぼ決した時の様子だという。
 彦根藩の筆頭家老・木俣家に伝来し、その後、彦根城博物館に寄託された。同様の関ヶ原合戦図はほかに6点が確認されているが、木俣家伝来のものには、井伊家家臣十数人が加筆されており、木俣家が制作者に命じたと考えられている。

彦根プリンスの名、消える 「彦根ビューホテル」へ

 彦根プリンスホテルは、3月1日に「彦根ビューホテル」と改名する。宿泊や食事、式場貸し出しの料金も見直し、宿泊は1泊2食付で365日同一料金の7800円で提供する。 
 同ホテルは、昭和56年7月25日に開業。昨年3月に近江鉄道から、旅館やホテルを全国で経営する「スタディー」(東京都豊島区)に経営譲渡され、その際に1年以内にホテル名を改めることが約束されていた。
 客室数は102室。2人1室で「スタンダードツインルームB」の宿泊代は、バイキング2食付で7800円の料金設定に。バイキング形式の食事も昼980円、夜2480円とリーズナブルになる。
 支配人の竹川秀人さんは「地元の皆さんにも利用して頂けるホテルにしていきたい」と話している。
 

「強い世代」率いた元監督・北村雅敏さん

 昭和53年に右腕・大辻民樹、平成2年に左腕・平松啓亮を擁した彦根東は秋、春、夏の県大会でいずれも決勝戦に進出、近畿大会でも強豪高と競り合うなど、近年では最も甲子園に近かった。監督を務めたのは現在、県高野連副会長のOB北村雅敏さん(58)=小泉町=で、当時を含め約16年間チームを率いた。
 ―監督時代の野球部の様子や練習風景を聞かせてください
◇昭和51年から平成4年ごろまで監督を務め、その間の部員は30人前後で推移していました。私も運動のできる生徒を見つけては積極的に野球部に勧誘していました。
 今でもそうだと思いますが、学校の狭いグラウンドにはいろんな運動部がひしめきあっていました。セカンドの後ろでアメフト、ショートの後方ではサッカー、という具合です。校庭での守備練習やノックは内野のみに限られ、外野の守備や打撃練習は週に1、2回彦根球場を借りていました。ですから練習試合はすべて相手校のグラウンドなどでやっていたため、校外慣れし、公式戦には気楽に臨めました。
 ―昭和53年と平成2年のチームはとくに強かったと言われていますが
 ◇昭和53年は比叡山が強くて秋、春とも県大会の決勝で対戦しましたが、共に競り負けました。近畿大会では、初戦で元阪神・木戸捕手を擁するPL学園に、夏の県予選決勝では膳所に惜敗しました。
 平成2年は左の本格派投手・平松を主戦に、新チーム発足後の秋大会決勝で近江兄弟社を破り、優勝することができました。近畿大会では1回戦で神戸弘陵と対戦。平松は13奪三振の力投でしたが、延長13回の末に5-2で敗れました。夏の県大会の決勝戦は、甲子園常連校になりつつあった八幡商で、1点を追う9回表二死2、3塁で一打逆転のところまでいきましたが、、6-5の1点差で負け甲子園には届きませんでした。
 ―甲子園に出場する現在の選手たちに一言お願いします
 ◇みんな勉強も部活も一生懸命努力を続けてきたのでチャンスをつかめたのだと思います。甲子園では悔いのないよう戦ってきてほしいです。総合的に力があると思うので、周囲の高校との比較にとらわれることなく、持てる力を出すことだけを考えて臨んでください。

滋賀県高野連審判部長の野村勝彦さん

 彦根東高の野球部OBで、県高等学校野球連盟審判部長を務める野村勝彦さん(71)=松原町=に、当時の思い出と、審判から見る現役の部員への思いを聞いた。
 ―東高が2度目のセンバツへ出場した昭和28年(1953)に入学されたとのことですが―
 ◇センバツ出場時は彦根東中の3年生で、ラジオにくぎ付けになって聞いていました。その時にはすでに東高への入学が決まっていて、憧れの野球部に早く入りたい思いでいっぱいでした。
 ―1年生の夏の大会では、当時の部員が審判の判定に抗議するため、2時間グラウンドに座り込んで、結局、没収試合になったらしいですね―
 ◇その時は私もベンチにいて、先輩方が抗議のため座り込んでいた時は、ベンチから茶碗とやかんを持って、お茶くみをしました。その後、1年生も座り込んだ記憶があります。結局、抗議は認められず、東高野球部は1年間の活動停止処分になりました。
 その後、部員は同期の7人だけとなり、走り込みやうさぎ跳びなどほそぼそとした活動を続けました。2年生になってからはボールとバットを持つことが許され、野球ができる喜びを実感していました。
 ―卒業後は、審判として活躍されているそうですが―
 ◇卒業後も野球部の手伝いや草野球など、野球の世界から離れることができず、30歳を過ぎた昭和45年ごろから県野球審判協会に所属し、県内の野球大会で審判をするようになりました。県高野連に審判部が新設された昭和62年からは審判部の専属審判となり、平成12年からは審判部長を務めています。
 ―今年のセンバツからストライクゾーンが変わるため、東高野球部の練習にも指導に出かけられているとのことですが―
 ◇公認の野球規則に合わせて、今年からストライクゾーンがボール半分ほど低くなります。練習にも何度かうかがい、新しいストライクゾーンを教えています。
 ―甲子園でも審判をされておられるとのことですが、これから甲子園で戦う現役の部員たちに激励の言葉をお願いします―
 ◇甲子園では、審判の掛け声による整列と同時に、内野から外野にかけて観客の拍手が起こり、独特の雰囲気に包まれます。その雰囲気に飲まれるのではなく、逆にプラス材料にしてほしいと思います。
 高校野球の原点は、フェアプレーとスピードです。本番で攻守交代をスピィーディーにしようとすると、肝心なプレーでミスをするように思います。日ごろの練習からスピーディーに動くことを意識づけて、本番ではプレーだけに集中できるような状態に持っていってほしいと思います。

2009年2月24日火曜日

市税11億円の減、21年度予算一般会計は350億円

 彦根市は、平成21年度当初予算案を発表。一般会計は歴史まちづくり法関連や緊急経済・雇用対策など新たな事業を盛り込んだため、前年度比4・3%増の349億8000万円に。また8つの特別会計と2つの企業会計を合わせた総額は同1・4%増の704億5647万円になった。
 一般会計の歳入は、景気後退の影響から、個人・法人市民税とも大幅に減少し市税全体では10億8054万円の減になった。一方で、地方交付税は税収減に伴う国の補助と、雇用促進の地域雇用創出推進費の新設により、10億7700万円増となり、全体では前年度並みの財源を確保する。
 歳出は、人件費を特別職と管理職の給与削減、時間外勤務の縮減、補充抑制による9人の正規職員減などで、計1億1677万円削減する一方で、歴史まちづくり法関連や緊急経済対策など新規事業に加え、旧彦根藩松原下屋敷庭園保存推進事業や福祉関連の扶助費が増加している。
 借金にあたる市債は各会計で抑制に努め全体で8億円の発行にとどめ、21年度残高も前年度比30億円減の1096億円になると見込んでいる。
 貯金にあたる基金は、今年度21億円を取り崩す予定で、21年度残高見込みは25億円になり、市財政課では「あと数年で枯渇することになり、基金がもつ本来の機能が発揮できなくなる」としている。

 彦根市の平成21年度一般会計予算案の総額約350億円を、1万分の1の年収350万円の家計に例えると次の通りになる(単位は万円)。
 【収入】 ▽給料(市税、交付税など)=237▽助成金(国・県からの支出金)=49▽銀行からの借金(市債)=25▽定期預金の解約(繰入金)=22▽そのほか(財産収入など)=17。
 【支出】 ▽生活費(人件費、扶助費など)=220▽仕送り(繰出金)=51▽ローンの返済(公債費)=46▽家の増改築など(投資的経費)=32▽貯金(積立金)=1。

彦根市議会で「子ども議会」

 彦根市内の小学生が議員となり質問する「子ども議会」が2月14日、市議会議場で開かれた。
 市議有志がプロジェクトチームを結成し、子どもたちに政治への関心をもたせようと初めて企画。市内の小学6年生から質問を募り、選ばれた30人が議員となり、市長などに質問した。
 児童たちは、「彦根の知名度をあげるためにひこにゃんに家族を」「学力調査の彦根の状況は」「地産地消で町の活性化を」「財政難の改善策は」などの質問をし、傍聴していた市民や市議からは関心の声があがっていた。
 琵琶湖でのマナー向上を訴えた稲枝北小の辰巳嘉大君(12)は「緊迫した雰囲気で最初は緊張したけれど、少しずつ緊張もなくなった。政治に少し関心ももてたし、議員にも興味をもった」と話していた。

10年以上トレーナー務める山根寛治さん

 彦根東高野球部を身体面から支えているのは同部のトレーナーを務める山根寛治さん(45)=山根接骨院長(米原市野一色)。十数年前に、着任して間もなかった今井義尚監督から依頼されて以来、部員たちと付き合っている。
 ―どういういきさつで依頼があったのですか―
 ◇大津であったケガ防止をテーマにしたストレッチ講習会の講師を務めた際、東高・剣道部の顧問をされていた先生が参加しておられ、その先生の話を聞いた今井監督から翌日に電話で依頼をいただいたのがきっかけです。
 ―どういったサポートをしているのですか―
 ◇毎週火曜と木曜の夕方以降に部に顔を出して、選手たちのマッサージをしています。筋肉がほぐれやすかったり、そうでなかったり、一人ひとり筋肉の癖が違います。ですから、マッサージ中は身体の管理上の注意した方がいいことも話しています。
 ―マッサージ以外にも色々とされているとのことですが―
 ◇ほかにも、テーピングの巻き方や、給水の方法など体調管理面でのアドバイスをしています。東高野球部は、ほぼ毎週末遠征しており、私もポータブル(折り畳み式)ベッドを持って同行しています。
 ―サポートする上で気にかけていることは―
 ◇マッサージや指導は、私から能動的にはやらないようにしています。選手の求めに応じて行っており、押し付けにならないよう待ちの姿勢に努めています。その理由は、ケガに気をつけるという自己管理の意識が高まっていけばいいかなという思いからで、選手たちの自主性に任せています。
 ―センバツへ出場する選手たちに激励の言葉をお願いします―
 ◇今のチームは例年に増して、ハートが強い部員が多いと感じており、相手が強豪校でも萎縮しないと思います。甲子園では1つひとつのプレーや、攻守交代で、とにかく全力疾走を心がけてほしいと思います。

2009年2月17日火曜日

東国原知事が「魚忠」を電撃訪問

 東国原知事は、ひこね市文化プラザで開かれた田原氏との対談に先立ち、彦根市西今町の日本料理店「魚忠」を電撃訪問した。
 同店の若女将・大橋田香子さん(32)が宮崎県延岡市出身で、先月31日に大阪市内であった宮崎県人対象のイベントで知事と対面。その際に、宮崎・日向地方特産のかんきつ類「平兵衛酢(へべす)」を使って日夏町のしょうゆ醸造場に試作してもらったポン酢をプレゼントした。
 秘書らと4人で訪れた知事は、店主や若女将らに礼をし、偶然、居合わせた客数人とも気前よく記念写真の撮影に応じていたという。電撃訪問に同店料理人も「来てもらえるとは」と感激していた。
 なお、平兵衛酢は抗酸化作用があるポリフェノールを多く含み、がん細胞の増殖を抑制するとされ、同店で販売している。

「官僚支配構造の打破を」 東国原知事が田原氏と彦根で対談

 彦根出身のジャーナリスト・田原総一朗氏と宮崎県の東国原英夫知事が2月14日、ひこね市文化プラザで「地域の文化力」をテーマに対談。約1400人の来場者を前に、地方自治や観光施策について話した。
 田原氏はまず、知事になろうと思った理由を質問。東国原知事は子どものころの夢がお笑い芸人と政治家になることだったと紹介した上で、「笑いと政治は似ている。(民衆が)笑うと活力が生まれ、その活力を持たせるのが政治力。政治家は『笑い』を提供しなければならない」と答えた。田原氏も「滋賀や彦根に足りないのは『笑い』だ。嘉田知事も、獅山市長もまじめすぎる」と述べ、会場の笑いを誘った。 

 地方自治について知事は、限界集落を例にあげ「限界集落は学術用語であり、宮崎県では公募で『生き活き集落』と命名し、地域のリーダーをつくり、交流人口増のために取り組んでいる」と解説。「地方自治の基礎は全員が意思決定に関わることだ。(民衆に)政治への関心を持たせるための創意工夫が大切。自分が必要とされているという意識を持たせる政策を考えなければ」とアドバイスした。
 国と地方の関係について、田原氏の「嘉田知事は財政運営が厳しいと言っているが、なぜ地方は国にモノを言えないのか」との質問に、知事は「県民から選ばれているのに知事の権限は小さく、国の言うことを聞かなければ、柔らかく圧力をかけてくる」と説明。田原氏は「国家公務員の大半は地方におり、国のごり押しのためにいるようなものだ」との批判に、知事も「国の統治システムを変えないと、この国の衰退は避けられない」と答えた。
 観光施策について田原氏は、滋賀や彦根への観光客数は増えているが、夜になると京都など県外に移っており、「彦根にはごみだけ落ちてお金が落ちていない」「どのようにしたら宿泊客増につながるのか」と質問。知事は「宮崎では体験型観光をうたっており、昼間は農業を体験してもらい、夜は民泊してもらっている」と答えた。
 

センバツ初出場時の高岡利彦さん、戦後占領下で

 彦根東高校が初めてセンバツに出場した昭和25年(1950)時のレギュラーだった高岡利彦さん(77)=西今町に、当時の思い出を聞いた。
 ―戦後まもない混乱の時期ですが、当時、野球部はあったのですか―
 ◇前身の彦根中学校に昭和20年に入学した時、野球部はなく、近所で仲間たちと遊ぶ程度でした。その後、22年に野球部に入り、翌年の秋の県大会からレギュラーになり、ショートを守りました。その年の秋の県大会で優勝し、24年には県大会を勝ち進み、近畿大会でも決勝で洛陽(京都)を下し優勝し、初のセンバツ出場を決めました。
 ―甲子園の雰囲気とセンバツでは戦いの様子は―
 ◇観客の多さには驚き、全員が落ち着いた様子ではなかったと思います。初戦は開幕日の第2試合で、明治(東京)と戦いましたが、完封負けでした。当時はまだ米国の占領下だったため、入場行進の音楽は米国海軍のマーチが流されていたことを記憶しています。
 ―そのほかにも米国色が表われていたのではないですか―
 ◇開幕日の始球式は、マッカーサーの夫人が始球式を務めました。現在のマウンドからではなく、スタンドからの始球式だったと思います。
 また第2試合の始まる前には、米国から初めて輸入されたというバッティングマシーンが披露されました。私は1番バッターだったため、日本で最初にバッティングマシーンの球を打ったことになるのかもしれません。しかし、バンドしか許されず、バンドをしようと思いましたが、いままでに見たことがないスピードで、かするのがやっとでした。
 ―センバツ出場する現在の部員たちに激励の言葉をお願いします―
 ◇勝敗よりも赤鬼魂の精神で堂々と戦ってきてほしい。頑張ってください。


昭和28年センバツ出場の中村善一郎さん


 第81回選抜高等学校野球大会(センバツ)に出場を決めた彦根東高校野球部―。これまでに昭和25年と同28年にもセンバツ出場を果たしている。滋賀彦根新聞では、当時の野球部OBの皆さんや現在の野球部に関連する方々の、思い出話しや激励の言葉を連載する。第1回目は、昭和28年のセンバツにキャッチャーとして出場した中村善一郎さん(73)=高宮町=。
 ―元々は野球部ではなかったとのことですが―
◇高宮中学校の時は野球部でしたが、16歳の時に父親が亡くなったため、東高に入ってからは野球部には入っていませんでした。しかし、校内の野球大会での活躍が目に留まったのか、野球に熱心な先生が授業の度に野球部に入部するよう言われ、2年生の秋ごろにスコアラーとして入部しました。
 ―入部後、いつレギュラーになったのですか―
 ◇入部してすぐの2年生の冬にレギュラーになりました。中学時代はサードだったのですが、監督の指示でキャッチャーになりました。
 ―センバツ出場までとセンバツでの思い出を聞かせてください―
 ◇この当時の野球部は強かったと思います。前年の秋と次の年の春の大会を優勝し、近畿大会では京都のチームを破って、昭和25年以来のセンバツ出場を決めました。センバツでは、熊本の済々廣と戦い、1安打の0対4で完敗しました。私は8番キャッチャーで出場し、バックネット近くのファールフライを飛び込んでキャッチし、審判から「ナイスキャッチ」と褒められたことを覚えています。
 ―その年の夏の大会では、審判の判定を巡って混乱し、放棄試合になったとのことですが
 ◇初戦にライバルだった大津東高(膳所高)とあたり、2対3でリードされていた9回表の攻撃で、見方の走者がホームに突っ込んだ際、相手のキャッチャーが落球しセーフで同点だと思いましたが、審判はアウトのコール。私たちは抗議の意味で三本間に約2時間座り込みました。球場内は審判席にラムネのビンが投げ込まれたり、熱狂的なファンが役員席に殺到したり、彦根市警(当時)の警察官が動員されるなど混乱しましたが、結局認められず、アウトの宣告後も座り込んでいたため、0没収試合となり対9で敗退しました。
 いまから思えば、センバツに出場したことによる「おごり」があったのかもしれませんが、強烈な思い出として、私たちの心の底に焼きついています。
 ―甲子園の雰囲気は、やはりほかの球場と違うと思いますが、センバツへ出場する現在の部員たちに激励の言葉をお願いします
 ◇甲子園の観衆の多さはケタ違いです。平常心で、日ごろの練習の成果を発揮することが大切ですが、緊張してあがると思います。1勝すれば、リラックスして力を発揮できると思うので、まず1勝を目標に頑張ってください。

2009年2月10日火曜日

ゆるキャラまつり、今秋に2回目開催

 井伊直弼と開国150年祭実行委員会は2月6日の会議で、第2回目の「ゆるキャラまつり」を市内商店街で今秋に開くと発表した。
 昨年10月25、26日の両日、商店主らが実行委を組織し夢京橋キャッスルロードと四番町スクエアで開かれた「ゆるキャラまつり」には、2日間で全国から約4万5000人が訪れ、その経済効果は約2億円といわれた。
 昨年は46体のゆるキャラが集ったが、同まつりの立案者の荒川深冊さんによると、今年は自治体のキャラクター以外に企業や商品のキャラクターにも呼びかける予定で、100体以上を見込んでいる。開催日は9月末予定。
 イベントの内容も▽祭りの期間を延ばす▽ほかの商店街や文化プラザなど開催会場を広げる▽ほかのイベントと連動させる―ことを予定している。

自民・藤井衆院議員新春の集いに750人、古賀誠氏も

 自民党の藤井勇治衆院議員の新春のつどいが2月7日、彦根プリンスホテルで開かれ、支援者ら約750人が参加した。
 藤井議員は「(愛荘町のインターに建設予定の)湖東三山スマートインターチェンジの来年度からの着工や、外町の渋滞緩和のためのバイパス整備など、国と地方とのパイプ役を担ってきた」と実績をアピールし、彦愛犬地区での定住自立圏構想については「市町とスクラムを組んで定住自立圏の街づくりを進めていきたい」と述べた。
 国政については、「与党内では消費増税の声があるが、現在の経済状況では増税をしている時ではない」と消費増税に慎重姿勢を示し、「来年度予算についても審議中だが、年度内に実行していくことが日本経済の建て直しになる」と民主党をけん制。「公明党にも感謝をしながら、湖東の発展と日本の再生のため、全力を注ぎたい」と意気込んだ。
 来賓としてあいさつした党選挙対策委員長の古賀誠氏は「世界同時不況下で麻生政権は大変苦労しているが、政府、与党は国民の生活、暮らしのために全力で取り組んでいる」と力説。一方で、「(民主党など野党が過半数を占める)参議院は政局一辺倒で、国民の生活ほったらかし。機能停止になっている」と民主党を批判した。藤井議員に対しては「明るく、誠実で実行力を持った政治家だ。混迷する世の中で、国のため、地方のために必死に頑張っている」と評価した。

2009年2月6日金曜日

彦根市立病院で鳥インフルエンザの対応訓練


 県や彦根市立病院、市消防本部は5日、市立病院で新型インフルエンザの感染者発生時の対応訓練をした。
 鳥インフルエンザが東南アジアを中心に世界的に流行しており、日本国内でも流行のおそれがある。国は、大流行時には国内で64万人、彦根市内では600人が死亡すると推計している。
 訓練は、市内の男性から「親戚の感染者に接触した後、高熱とせきがあり、呼吸も苦しい」との連絡が彦根保健所内の発熱相談センターにあり、市立病院に検体の採取を依頼。その後、男性が救急車を要請し、市立病院の外来に搬送されたとの想定で行われた。
 訓練には、彦愛犬地区の自治体、医療機関、彦根署、市消防本部、市立病院などから約150人が参加。対策本部の設置、市立病院への搬送、診察と検体採取、患者接触者への疫学調査、マスクや防護服着脱などの訓練が行われた。

肥田城遺跡で屋敷群跡や懸仏が見つかる

 県文化財保護協会は4日、彦根市肥田町内の肥田城遺跡で、16世紀前半の肥田城下に広がっていた屋敷群跡が初めて見つかったと発表した。
 平成18年度から3年かけて発掘調査しており、これまでに奈良~平安時代の集落跡、古墳時代後半の埴輪(はにわ)と鳥型の木製品を発見した。平成20年度は昨年4月から9月に約6680平方㍍で調査が行われ、縄文~室町時代の遺物と遺構を見つけた。
 発見された遺物は、▽鏡の表面に仏や菩薩、明王、神像などが彫られた「懸仏(かけぼとけ)」、高さ4・4㌢、重さ14・9㌔▽供養する際に飲食物を盛る「飲食器(おんじきき)」、高さ10・3㌢、口径6・8㌢、重さ98・8㌘▽追善供養の際に埋葬地に立てられる板材「卒塔婆(そとば)」で、長さ10・3㌢、幅2・1㌢の小型のものと、長さ14・6㌢、幅4・3㌢の大型製―など。
 遺構としては、幅1~3㍍の溝、柱穴や柱を支える板石など住居跡のほか、香炉や花瓶など信仰に関する品や、中国製の青磁碗、朝鮮製の碗なども見つかった。これらの遺構や遺物から県文化財協会では、▽文献や地理的に推定されてきた城館(城と城下の家来が住む館)は16世紀代を中心に機能していた▽城館には複数の溝で区画された屋敷群が広がっていた▽屋敷群の中に仏教関連施設があった―ことが新たに明らかになったとしている。

2009年2月3日火曜日

彦根市立病院の「こころと体の図書室」、一般開放

 彦根市立病院の医療情報センター1階に2月12日、誰でも利用できる「こころと体の図書室」がオープンする。
 同センターは、約2619平方㍍の敷地に、2階建て延べ床面積1403平方㍍で昭和58年に建設された旧県立短大図書館を改装した建物で、平成19年4月に、湖東地域リハビリテーション広域支援センター、会議室、図書室などを設け開設された。
 市立病院は開かれた病院を目指し、図書室を一般向けに開放することにした。図書室は約98平方㍍で、医学専門から一般向けまで、約100冊が蔵書されているほか、インターネットの閲覧(無料)で医療の学習ができる。プリントサービス(有料)もある。開館は平日の午前10時~午後4時で、土日・祝日は休館。
 貸し出しはできないが、市立病院では蔵書数が増えれば貸し出しも考えたいとしている。

埋木舎近くの旧池田家長屋門

 彦根市尾末町の埋木舎近くに旧池田家長屋門(市指定文化財)がある。
 池田家は彦根藩の中堅武士で、大坂の陣以前の慶長15年(1610)か同16年ごろに、彦根藩に「伊賀者」として召し出されたとされる。大坂の陣後、初代・安清は100石で京橋口櫓普請の下奉行を務め、正和2年(1645)には切通口門(現・キャッスルホテル近く)番頭に就いた。
 四代藩主・直興に重用された池田家三代・安富の時代には石高が250石になったが、その後、増減を繰り返し、七代・安重以降は180石で明治維新を迎えている。役職は納戸役などを務め、藩財政の管理に手腕を発揮した。屋敷は、寛永12年(1644)には御歩行町(京町2)にあったが、江戸中期に現在の尾末町に移った。
 旧池田家は、敷地面積が間口約31㍍、奥行き約18㍍で、主屋と長屋門が建っていた。主屋は明治以降に改造された後、昭和後期以降に取り壊され、現在はアパートになっている。長屋門は桁行約18㍍、梁間約3・6㍍の桟瓦葺きの入り母屋で、北側に縁がある。南側を門としており、その中央に板戸。門の右手は5区画に区切られている。
 5区画では、足軽より身分が低い仲間(ちゅうげん)部屋、厩(うまや)、居室などとして使われていたという。昭和48年4月28日に市文化財に指定。なお、市は歴史まちづくり法認定に基づき、来年度から旧池田家長屋門の整備に入る。