
直虎は井伊家二二代当主・直盛の一人娘として生まれた。直盛には男の子が生まれなかったため、直虎の許嫁(いいなずけ)だったいとこの直親に家督を継がせる予定をしていた。直虎が誕生した年は明らかになっていないが、直親と同世代だったことから、天文4年(1535)か同5年だと考えられる。
直親の父・直満が今川家に殺され、9歳だった直親の命も狙われたため、その身は秘密裏に信州に隠された。直虎は直親が亡くなったと思い、井伊谷にある井伊家の菩提寺・龍潭寺で出家し次郎法師と名乗った。
11年後に井伊谷に戻った直親は直盛の養子となり、奥山家の娘と結婚し、永禄4年(1561)に男の子が誕生。虎のように強く、常磐の松のように末永く栄えることを願って虎松と名付けられたとされる。この虎松が後に井伊家二四代当主・彦根藩初代藩主になる直政だ。
虎松が生まれた年は武田信玄と上杉謙信による川中島の合戦と同年。その前年の桶狭間の戦いでは直盛が戦死するなど、戦乱まっただ中での誕生だった。また、虎松誕生の1年後には直親が謀殺され、その翌年には再び当主を継いでいた曾祖父の直平も毒殺された。
この期間の逸話として、昭和46年刊行の改訂「近江国坂田郡志」の第6巻には、「永禄7年4月から2カ月間、今川氏真の詮議を避けて、井伊万千代(虎松)が眞廣寺(米原市)に滞在した」と記されており、これが事実ならば、直政が幼少期にすでに近江入りしていたことになる。
南渓和尚について、龍潭寺の前住職・武藤全裕さん(82)は「軍師のような役割を果たしていた」と解説。虎松が15歳になった天正3年(1575)に直親の13回忌法要が営まれた際、直虎や南渓和尚らは虎松を家康の家臣にさせることを決断した。直親と親交があった家康は、自身の幼名・竹千代にちなんで、虎松に万千代を名乗らせ、300石を与えた。

井伊谷にある龍潭寺は奈良時代に行基菩薩が開いたと伝えられている。
元々、井伊谷の地域は「井の国の大王」が聖水祭祀を務めた「井の国」の中心地とされ、水にまつわる伝説が多く残るという。

室町時代には、井伊家二十代・直平が帰依した黙宗瑞淵和尚を新たに同寺の開山として迎えたことで、遠州地方に臨済宗が広められた。
なお彦根市古沢町の龍潭寺は、慶長5年(1600)に直政が佐和山城主となったのを機に、昊天禅師を招いて山麓に建てられた。こちらの庭園も遠州が造園に関わった。
このほか、井伊家の城としては井伊谷城があり、直虎らもこの城を拠点にしていたとみられる。現在は井伊谷城跡城山公園として整備されている。
そして、山下には井伊家館跡(井伊城本丸跡)に残る「井殿の塚」があり、今川家によって謀殺された井伊直満・直義兄妹の輪塔がある。
(※=この特集記事は本紙平成28年の元日号で掲載した内容です。)
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