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2022年5月6日金曜日

敏満寺石仏谷墓跡の一部の復元工事を完了

 多賀町教委は、現存する中世の墓地遺跡のうち国内最大規模で最古の(※)敏満寺石仏谷墓跡(びんまんじいしぼとけはかあと)=国指定史跡=の一部の復元工事を完了したと発表した。
 
大量の石仏と五輪塔
 1995年に地元から敏満寺遺跡内にある石仏谷(通称)の整備の要望を受けた多賀町教委は翌年度から測量調査を実施。2002年7月に多賀町指定史跡とし、翌年度から2年間かけて発掘調査を行い、数え切れない石仏や五輪塔を確認。1万0475平方㍍におよぶ中世墓地群だったことが判明し、05年7月14日付で国史跡となった。
 
地元の有力者埋葬か
 発掘調査では12世紀から17世紀まで(平安時代終わり~江戸時代初め)の土器や陶磁器が発見。そのうち14世紀代が56%、13世紀代が27%で、土器や陶磁器のほとんどが火葬した骨を入れる蔵骨器だった。12世紀後半から13世紀の各地で確認されている墓地は土葬が主体で、天皇や貴族、一部の武士の上位階層のみが堂や塔の中に遺体または火葬骨を埋葬する方法を採用。その後、石塔を建てる墓地に変化し、有力な武士や高僧らが石塔群として墓を形成した。
 敏満寺があった地域は中世時代、奈良の東大寺と深い関係にあったことが知られており、極楽浄土の世界があるという認識と共に西方を意識し、西側を正面に地元の有力者や高僧向けの墓を構築したとされる。一方で15世紀以降、敏満寺は多賀大社との連携が深くなり、北側に中心が移り発展していった。町教委では「中世の前期から後期にかけて、社会の変化に合わせて宗教都市から戦国時代の寺院型の城塞都市に変化した歴史を、石仏谷墓跡で出土した土器や陶磁器の移り変わりが物語っている」としている。
 
5日現地説明会
遊歩道整備 公開へ
 町教委は墓跡を整備するため2013年度に活用に向けた管理計画を作り、16年度から史跡整備に着手し、中央部で復元作業をしてきた。整備事業は2028年度完了予定で、遊歩道を整備して一般公開する予定。
 復元作業が完了した中央部の墓は南北約17㍍×東西8㍍。西側に大きな石を並べ、一部で2、3段ほど積み重ねている。中心部は南北約8㍍×東西約3㍍の低い墳丘を築き、川原石を敷き並べ、墳丘の頂上部分に蔵骨器7基を設置した。
 中世石造物研究が専門で大阪大谷大学の狭川真一教授は「敏満寺石仏谷遺跡は当初の位置をおおむね保ちながら現存しており、石仏などの数もおびただしい。分布範囲も広大で、現存遺跡では最大規模で最上級の保存度合い。復元した墓跡は地域有力者の墓地として評価できる」とコメントしている。問い合わせは多賀町立文化財センター☎(48)0348。
 ※【敏満寺】湖東三山と並ぶ寺院だったとされ、その開基は平安時代の後期ごろと言われている。最初に登場する記録は天治2年(1125年)の敏満寺が京都の平等院を介して園城寺の支配下に入ったとされる内容。延慶2年(1309年)の記録によると、堂舎40軒余り、宝塔数カ所があったとされ、ピーク時には50余りの堂舎が立つ大規模な寺院だったと伝えられている。元亀3年(1572年)に織田信長に攻められた後、廃寺となった。現在は寺自体が無くなり、遺跡上には名神高速道路が走っている。

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