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2019年12月16日月曜日

男鬼入谷城の謎に迫るセミナー

 彦根市男鬼町と多賀町にまたがる男鬼入谷(おおりにゅうだに)城跡について学ぶセミナー「隠し砦か、アジールか、誰が築いた?『男鬼入谷城』は謎だらけ」が8日、鳥居本学区自治会館であり、セミナー後にはフィールドワークも行われた。
 NPO法人ひこね文化デザインフォーラムが歴史手習塾として開講し、講師には滋賀県立大学の中井均教授を招き、約60人が受講した。男鬼入谷城について中井教授は明確に示した古文書が残っていないとし「城の名称すら伝わっていない」と報告。構造と築城時期については東西約200㍍×南北約150㍍に、北端の主郭(Ⅰ郭)と中央部のⅡ郭、西側のⅢ郭に、堀切や土塁、竪堀、石積みの跡があることから「戦国時代後半の16世紀中頃以降(1550年から75年まで)に築かれた城では」と説明した。
 特性については、彦根や米原の後背地の山岳地帯に築かれた「霊山山系の山城」として、八講師城跡(米原)を取り上げながら「山奥からの出撃拠点であり、山奥へ侵入する際の防御拠点との構造が男鬼入谷城と似ている」と解説。「江南の六角氏と江北の浅井氏のはざま地帯で、統治権が及ばない治外法権のアジール(聖域)だったのでは」とも述べた。
 戦国時代のこの地域を支配した武将としては、天文22年(1553年)に六角氏に敗れた後に消息不明になったとされる京極高広(高延)をあげ「ゲリラとして支配し、その拠点として男鬼入谷城を築いたのかもしれない」と推測。その後の動向として、中井教授は「霊山山系は堀氏が引き継いだが、堀氏の解体をもって織田信長政権下に組み込まれたと思われる」と語った。
 セミナー後のフィールドワークでは中井教授の解説で、男鬼入谷城の遺構跡を見学した。


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