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2017年9月7日木曜日

彦根城の着見台の石垣上部に修理の形跡 調査で明らかに

 彦根城築城410年祭に合わせて、滋賀彦根新聞が連載している「彦根かるた巡り」。第3弾の今号では「つ」の着見(つきみ)台を取り上げる
 彦根城天守の北東部にある着見台は江戸時代、2階建ての建物があり、着見櫓と呼ばれた。着見櫓の石垣は上部と下部で異なる築き方だが、滋賀彦根新聞が市教委文化財課に依頼した調査で、上部の石垣が修理された際に築かれたことがわかり、築城当時から櫓が建っていたことも確認された。
 着見櫓は1階が6間(1間約1・8㍍)×5間、2階が4間半×3間半の規模だったとされる。玄宮園内から明治初年ごろに撮影された写真を見ると、北側の2層目の正面が千鳥破風の形状だったことがわかる。
 今回の調査で、着見櫓の石垣は最も高い場所で垂直高が10・80㍍、そのうち築城が始まった慶長9年(1604)ごろに築かれた石垣が6・38㍍、それ以降に修理されたのが残り4・42㍍だったことがわかった。
参勤交代で「着見」に
 着見櫓は参勤交代からいろは松を通って帰郷して来る一行を確認する(着くのを見る)ための建物だったとされるため、参勤交代が始まった寛永12年(1635)以降に着見櫓と呼ばれるようになったと考えられる。
 江戸時代の絵図などから、築城当時にこの場所に櫓が建っていたことはわかっていたが、石垣上部の修理時期や櫓との関係性などは明らかになっていない。市教委文化財課主任の下高大輔さん(35)は「築城時に何らかの櫓が建っていたのは間違いないが、築城時から2層だったのか、いつから着見櫓と呼ばれるようになったのか、石垣の修理時期を含めて今後の調査対象になる」と話している。
 着見櫓は、彦根城が陸軍省の所管となった明治5年2月以降から、天守などの保存が決定した明治11年10月までの間に、ほかの一部の櫓と共に解体されている。櫓が無くなったことで、以降は着見台と呼ばれるようになったと考えられる。
 なお、彦根かるたにも登場している「月見に最適な場所」という説から月見台という名称が一部で聞かれるが、愛称に過ぎず、着見台(櫓)が正式な名称だという。

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