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2022年2月2日水曜日

男鬼町の歴史と再興

 彦根市の鳥居本エリアの山間部には、仏生寺、笹尾、男鬼、武奈、荘厳寺、善谷、中山の7つの山村集落がある。そのうち男鬼町は標高約420㍍地点にあり、昭和40年代後半に「廃村」となって以降、これまでに滋賀県立大学などが再興に向けた活動を展開。彦根市の和田裕行市長もその活用を模索している。本紙の山田貴之記者はかつて男鬼町で過ごしていた大久保則雄さん(67)=原町=や滋賀県立大学の学生たちの活動に同行。男鬼町の歴史や再興に向けた活動内容などを紹介する。
 
明治時代初期140
領地争い直訴で処刑
男鬼という名は奈良時代の神護景雲3年(769年)、雲仙山の山下に建立された7カ所の精舎のうちの1カ所が男鬼寺と呼ばれ、男鬼町内にあったことが由来とされるほか、「かつて鬼のような男がいた」との言い伝えも残る。
江戸時代の村高が32石余りで、明治時代初期には27戸に140人が住んでいたとされ、ほかに50戸ほどの家があったとする記録が残る。
 元禄16年(1703年)には、荘厳寺との領地争いが起こり、男鬼の男衆5人が「理不尽な扱いを受けた」として直訴。当時の直訴は打ち首が原則だったため、城下町の久座の辻に5人の首がさらされたという。男鬼の村民たちは恐れてとむらいに行けなかったが、あわれんだ明照寺(平田町)が引き取り、お祀りした。現在も同寺で法要が行われている。
 
特産「男鬼ゴボウ」
木炭や養蚕も盛ん
 男鬼町では米を作っていなかったため、主産業の林業による木炭を彦根市内で売り、米や日用品を買って帰る生活だったが、昭和30年代のいわゆる燃料革命によってガスや石油が普及し、それに伴って木炭の需要が減った。昭和初期には養蚕業が盛んになり、ほぼ全戸が営んでいたとされるが、これも労働力不足と需要減で廃業した。農作物では昭和30年代前半までゴボウが栽培され、特産品の「男鬼ゴボウ」として彦根市民に親しまれていた。
 
片道2時間で通学
「少年山の家」も
 学校としては明治19年(1886年)11月1日に、男鬼と隣の武奈、明幸(みょうこう)の各村を通学区域とする武奈簡易科小学校が設立。明治24年に男鬼に分教場が開設されたが、その年の4月1日に廃止され、全村を通学区とする鳥居本尋常小学校と改称された。しかし男鬼など3地区の児童生徒向けに明治33年に明幸に武奈分教場が設置。平成2年(1990年)3月末に廃校となり、跡地に石碑が立っている。
大久保さんによると、現在は完全に廃村となった明幸の分教場まで、片道約2㌔を毎日、峠を越えて通学。降雪日は村人が踏みしめて通学路を確保したといい、通学が難しい際は寺で授業を受けたという。中学校時代には男鬼から片道約2時間かけて歩いて山を下り、現在の鳥居本中学校に通っていた。
 昭和27年に鳥居本村が彦根市と合併し、昭和30年代の燃料革命などによって、山下の鳥居本などへの移住者が続出。昭和40年代後半には居住者がいなくなり、廃村となった。解体する家もあり、現在の戸数は7軒のみとなっている。
 昭和48年から平成14年まで、旧宅が彦根市教委に期間契約で提供されて「男鬼少年山の家」が開校。市内小学生の自然体験学習の場となっていた。
 
 
イザナミノミコトの比婆神社
旧男鬼町民の氏子や信者ら世話
 男鬼町の集落には日枝神社があり、5月第2日曜日と9月第2日曜日にそれぞれ春祭りと秋祭りを営んでいた。
 そして山上には伊邪那美大神(イザナミノミコト)を祭神とする比婆神社がある。集落近くの山下の案内板によると、境内規模は4530坪(約1万5000平方㍍)。江戸時代中期の宝暦年間以前に神殿が建立され、大正時代末期に崇敬者の寄進によって「荘厳なる」社殿が再現された。現在も巨大な岩山の前に社殿が建っている。
 
かつて女人禁制
 比婆神社は長く女人禁制の地だった。武奈分教場に教員として勤務していた木下利三郎さんは長浜市石田町に昭和14年ごろから居住。比婆神社の荘厳さとご利益の多いことを地元で紹介していたとされる。御岳教金屋布教所(長浜市石田町)初代の山室(下村)うたのさんが昭和初期ごろに比婆神社を訪れて以降、女人禁制では無くなり、以降も県内外の信者たちや現在の三代・下村八重子さん(70)が世話をしてきた。
男鬼町の集落近くにある最初の大鳥居から山上の社殿までには参道があるが、徒歩だと片道40分前後かかるという。そのため信者たちの資金で約35年前に車道が約1㌔にわたって整備された。また10年ほど前の台風で社殿が倒壊したが、信者の寄進によって再建された。
 
年数回の祭り
集落内に誓玄寺
比婆神社の宮司は高宮神社の宮司が務めている。氏子総代の大久保さんら男鬼出身者(氏子)らが参加し、毎年5月第2日曜日に春祭り、9月第2日曜日に秋祭り、11月最終日曜日にしめ縄法要を実施している。
 集落内には報徳2年(1450年)建立とされる浄土真宗本願寺派の誓玄寺があるが、昭和50年代に廃寺となった。
 【参考文献=「ふるさと鳥居本」「新修彦根市史第十一巻民俗編」】
 
(別枠で)
(写真=畑の草刈りをする県立大学の学生たち)
県立大が再興プロジェクト
民家整備や畑作「里山体験施設に」
 滋賀県立大学環境科学部の芦澤竜一教授と川井操准教授の合同チームが「男鬼プロジェクト」と題し、今年5月から男鬼町の再興に向けた取り組みを進めている。
 代表で環境科学研究科3年の川畑大輝さん(23)ら学生17人が所属。昨年だけで30回、現地を訪問。拠点にしている大久保さんの旧宅の清掃と整備のほか、ジャガイモ、春菊、ゴボウ、サツマイモ、ダイコンの栽培をしてきた。
 本紙記者が訪れた際は川畑さんと、環境科学研究科1年の岡田大志(ひろし)さん(24)、環境科学部3年の澤木花音さん(22)が活動し、畑の草刈りなどをしていた。今年は建物の改修に向けた設計や部分的な改修などを行い、「カーボンゼロ」をコンセプトにしたインフラ整備についても検討する。
 将来的には5年後をめどに里山体験型の「宿泊施設」としての整備を計画している。川畑さんは「初めて男鬼町を訪れた時、良い状態で集落が残っていて、厳密には『廃村化』していないと思った。信仰なども残っており、先人たちが築いてきた集落を次世代に継承したいと思った。課題が山積みで先行きも見えませんが、一つずつ手をかけたい」と話していた。
 男鬼の活用策について、和田裕行市長は交通アクセスや家屋の老朽化、インフラの問題から「すぐに市民レジャーの活用や観光客誘致は難しいが、短期的には映画のロケ地としての活用が現実的。自治会の皆さんの意向を踏まえながら、進めたい」と説明。
 大久保さんは旧宅の維持が難しいため、解体することも考えたという。「集落には比婆神社や原風景が残っており、歴史ある村。学生や行政の皆さんには、ずっと使えるような計画の立案を期待している」と語っていた。

2020年1月13日月曜日

河瀬地区「まちぶら」に記者同行

 彦根市の河瀬地区の寺社を親子連れで歩く「かわせスタンプラリー“まちぶら”』が開かれ、本紙の山田貴之記者も同行した。主な寺社を紹介する。

普賢寺 広野に昭和初め建立
 河瀬地区は歴史ある昔ながらの地域と新興住宅地が混同しており、児童数も増加傾向にある。河瀬学区社協は地元の歴史的な場所を子どもや親に知ってもらおうと「まちぶら」を企画。幼稚園から河瀬小5年生の18人を含む42人が参加し、約5㌔を約3時間かけて歩いた。
 河瀬地区公民館をスタートし、まず向かったのが広野町の普賢(ふげん)寺。長年、広野には寺がなかったが、全国水平社の部落解放運動の中で昭和6年(1931年)に建立。一時は保育所(後のふたば保育園)としても使われていた。境内には親鸞聖人像が建つ。
 2カ所目は広野町の春日神社。巨大なケヤキの神木が立っており、地元の盆踊りの際に賑わう。昔は相撲も行われていたという。

国府君神社 行願寺 月通寺
 3、4カ所目は犬方町の国府君(こうのき)神社と隣接する行願(ぎょうがん)寺。国府君神社は672年の壬申の乱で拉致された大海人皇子(後の天武天皇)が阿自岐(あじき)村の六人衆に救出され、犬上川南岸にかくまわれた。天武天皇の没後に皇后が持統天皇として即位した際、夫をかくまった宝殿に同神社名をつけたとされる。
 行願寺は、天台宗の行願という僧が普賢菩薩を本尊に812年に創建。火災や浄土真宗への改宗を経て現在に至る。
 5カ所目の葛籠町の月通寺は真言宗の寺院。本堂には奈良時代の僧・行基が彫像したという地蔵菩薩が安置。山門前の石碑に記された「不許酒肉五辛入門内」は「酒や肉、ニンニク、ネギ、ニラ、アサギ、ラッキョウの入門は許さない」という意味。江戸時代に禅宗の地福寺と称されていた名残だ。

足利家の子弔った「産の宮」
 6、7カ所目は葛籠町の若宮八幡宮「産の宮」と了法寺。南北朝の争乱時代の文和5年(1356年)、足利尊氏の子・義詮が京都への帰還途中、同行していた妻が産気づき、この地で出産。野村、高橋、小沢らの家臣9人を残したが、生まれた男子は幼くして亡くなった。家臣たちは竹と藤蔓(ふじづる)で作った葛籠を生産するようになり、この地に一社を建てた。現在は安産祈願の参詣者が多いという。
 義詮の妻は産んだ男子の死去後、悲しみのあまり髪を下ろして醒悟比丘尼(せいごびくに)と称して一庵(松寺)を建てた。その松寺は度重なる戦火で焼失したが、醒悟比丘尼の位牌は了法寺に安置。毎年正月11日に家臣の末えいの家で祭礼が行われる。了法寺は天文8年(1539)に貞安上人が織田信長の保護を受けて開山した浄土宗の寺。

井伊直通の元近侍の塾跡
 最後の8カ所目は松雨亭(しょううてい)跡。彦根藩士・澤村家に生まれた澤村琴所(きんしょ)(1686~1739)が1719年頃に案内板がある地の約70㍍西側に開いた塾。琴所は14歳で彦根藩主五代・直通の近侍(きんじ)に登用され、宋学や古学を学んだ。32歳の時に松雨亭を開塾し、近隣の村人たちに農業振興や社会政策の改善を教えた。高宮町の徳性寺に墓碑がある。
 「まちぶら」を終えた後、河瀬小2年生の井上由奈さん(8)は「色んなことを知れて楽しかった」と笑顔を見せた。河瀬学区社協会長の小林伊三夫さん(67)は「子どもたちにも楽しんでもらえたのでは。これからも世代を超えた交流ができる企画をしていきたい」と話していた。
 (※各寺社の説明は河瀬地区社協の配布文や現地の案内板に基づきます)。

2011年8月5日金曜日

クルーズ船「megumi」乗船 琵琶湖上での環境学習に同行―「再生へ琵琶湖に関心を」

 クルーズ船「megumi(メグミ)」に乗船して琵琶湖上で環境について学ぶ、「びわ湖の『今まで』と『これから』」が先月30日、彦根港発着で行われ、県内外から60人が参加。本紙記者も乗船しツアーに随行した。
 びわ湖の日(7月1日)制定から今年で30周年を迎えたことを記念し県が県内で環境に関するイベントを企画。湖東では講演や事例発表、水質調査を行った。(山田貴之)
愛のまちエコライフ理事・堤昭子さん
 事例発表では旧愛東町で廃食油から粉石けんを作っている愛のまちエコライフ理事の堤昭(てる)子さんが、合成洗剤が琵琶湖の汚染原因とされた昭和56年に廃食油からの粉石けん作りを始め、現在では「愛シャボン」として愛東マーガレットステーションで販売している、と告知。「(環境だけでなく)自分の体にも優しいことを体験してほしいし、今後も良いことは継続していきたい」と述べ、「琵琶湖が滋賀だけでなく、京阪神の住民の飲み水になっていることを、しっかりと心に刻んでほしい」と話した。
伊吹山もりびとの会・長束憲一さん
 伊吹山もりびとの会の長束憲一さんは、伊吹山で生息する草花が、県内にある種類の半分以上の約1600種類あることを紹介し、「植物の多様性は日本でも有数だ」と説明。その上でセイヨウタンポポなど外来種が増えていることをあげ、「早く見つけて早く駆除するしかないが、伊吹山の場合は手遅れ状態だ」とし、「琵琶湖への予算は莫大だが、山への投資はまったくない。県でしっかりとしたポリシーがないと」と、県の施策を批判していた。
びわ湖の水と地域の環境を守る会代表・松沢松治さん
 松沢さんは「びわ湖と共に50年~漁師の眼~」をテーマに話した。漁師を始めた昭和36年のころの琵琶湖は▽魚や貝がいるのが当たり前で、漁師は琵琶湖の水を飲んでいた▽湖岸は砂浜とヨシ帯、松林で調和がとれていた―と説明。しかし昭和47年ごろから、農地のほ場整備や内湖・堀・川の道路化、琵琶湖に一直線の排水路型の川整備、砂浜への漁港や湖周道路の整備などが進んだとし、「人々は排水路となった川にごみを捨て、農業の濁水も流され、環境は悪化していった」「琵琶湖の魚も食べないようになり、人々が川や琵琶湖から離れていった」と述べた。
 県などが発表している琵琶湖の水質調査に対しては、「科学的な分析ではリンやチッソは減ってきているようだが、漁をしている人間から見れば、毎年、汚くなっている」と指摘。NPO法人家棟(やなむね)川流域観光船を立ち上げて子どもたちに環境学習をしていることをあげ「体験すれば、良くしようとする意識が出てくる」と語った。
 自然の再生については、「自然は緻(ち)密であり、再生は難しい。元の自然を取り戻すことはありえない」「人間は自然と共に生きる必要があり、滋賀県民は琵琶湖に関心をもち、共に生きるようにしなければ、琵琶湖は守れないのでは」と進言した。
「琵琶湖への意識もつ」
 脇坂七重さん(38)・凛太郎君(11)・草介君(4)親子=彦根市後三条町=は「松沢さんが話されていた50年前と今とでは(琵琶湖が)まったく違うことがわかった。琵琶湖への意識をもちたい」と話していた。
 ※(随行記)我々県民の多くは、琵琶湖保全への意識は高いとは言えぬであろう。その最大の理由は、接する機会がないからであるが、琵琶湖と共に生きる湖国民として、保全する使命はあるはずだ。遅きに失したが、何らかの形で関わろうではないか。