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2020年1月15日水曜日

明智光秀出身説残る多賀町佐目を歩く

 来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公の明智光秀。明智家発祥の地とされる美濃地区(岐阜県南部)や光秀が坂本城を築いた大津はゆかりの地として有名だが、多賀町佐目(さめ)地区の出身説も昨年から広まりつつある。本紙の山田貴之記者が昨年11月末、佐目地区を訪れ、光秀伝説が残る地を散策した。

 国道306号線で彦根から多賀へ向かい、多賀交差点を多賀大社とは逆の方向に左折。そのまま10分前後走ると、建築業「マルト」の本社が出迎えてくれる。ここからが民家106戸(昨年1月時点)に202人(昨年12月1日時点)が住んでいる佐目地区になる。
 記者はまず、マルトを訪れて社長と奥さんにあいさつ。そこから再び山方面に向かい、簡易郵便局、商店、旧法蔵寺を過ぎると、最初の駐車場がある。その周辺一帯が、光秀が暮らしていたとされる中心地だ。

屋敷跡に住民手作りの休憩所 
 最初の駐車場のすぐそばには「十二相神社」と記された石碑と大きな鳥居が建っている。
 鳥居をくぐり、数軒の民家を過ぎると左手に空き地が見えてくる。ここが光秀が住んでいたとされる「明智十兵衛口伝の地 十兵衛屋敷跡」だ。十兵衛屋敷跡と木製看板の隣には、地元住民たちが作った木造の休憩所または展示スペースがある。また、光秀の佐目出身説が記されている江戸時代の文献「淡海温故録」の説明看板も建っている。

光秀遊んだ?十二相神社
樹齢500年の杉の木 堂々と
 記者が十兵衛屋敷跡に伺った際には、地元団体「佐目十兵衛会」の西河仲市さん(71)に出会い、そこから一緒に十二相神社へ向かった。参道を抜けると、左手に室町時代以前の地蔵が残るという地蔵堂があり、巨大な杉の木が左右に規則正しく2本ずつそびえ、その奥に本殿が見える。西河さんによると、十二相神社の正確な記録はないものの、明智家とゆかりのある美濃の岐阜県海津市南濃町にも十二相神社があり、明徳元年(1390年)に佐目から分社された記録もあるという。また同神社は江戸時代、十二相権現社と呼ばれていたらしい。
本殿の扉には戦後に12個の電灯を使ってひし形で作られた「十二の灯火」が設置されており、夕方になると点灯されるという。記者が参拝した際は午前だったが、西河さんに特別に点灯してもらった。
ご神木の杉に関する記録はないが、滋賀県緑化推進会によると、樹高約35㍍、幹回り約640㌢、樹齢は推定500年だという。光秀が毎日のように杉の木を眺め、この地を遊び場にしていたかもしれないという想像を膨らませながら、幻想的な本殿に手を合わせて十二相神社を後にした。

「神さん池」と「見津家」
次に向かったのが光秀が掘ったとされる井戸「神さん池」。この井戸を守るように地蔵が数体ある。記者が写真撮影をしに行った際、近くにいた地元の女性2人によると、「神さん池を使う時は光秀さんに感謝するように」との言い伝えがあるという。
佐目地区には当時、光秀の光から譲り受けた「見津」と書いて「けんつ」と呼ぶ5軒の一族がいて、現在も見津新吉さん(72)ら4軒が十兵衛屋敷跡の近くに居を構えている。この4軒の間に神さん池がある。
 記者が佐目地区を訪れた日は、県内の山城跡をリレーでのろしをあげる「琵琶湖1周のろし駅伝」の開催日だった。そのため、近江八幡観光物産協会のおもてなし武将隊から明智光秀と蒲生堅秀が甲冑姿で参上。十二相神社や十兵衛屋敷跡で記念撮影に応じていた。
 最初の駐車場から三重方面に200㍍ほど行くと大きめの駐車場がある。
 そこから階段を上ると、左手に「クマ出没注意!」の看板が建っている。少し勇気を出して、樹木が生い茂った山道をしばらく歩くと、高室山への登山口と「戦国武将も通った古道」の分かれ道がある。そして古道の方へ進むと、十二相神社につながっていることがわかり、400年以上前の時を感じながら古道を往復し帰路についた。

(写真=本能寺の変後に光秀が発令した「禁制」(多賀大社所蔵))
本能寺後 光秀発令の「禁制」
多賀町立博物館で企画展
 多賀町などは今月11日から町立博物館で、企画展「明智光秀と戦後の多賀」を開いている。
 光秀が織田信長を討った本能寺の変の4日後に多賀大社に発令した書物「明智光秀禁制」や、多賀出身説を記した淡海温故録、織田信長朱印状、羽柴秀吉書状などのほか、佐目地域に残る光秀ゆかりの地をすべて写真パネルで紹介する。
 2月1日午後1時半からは同館で、学芸員の本田洋さんの事例報告「光秀に味方した犬上郡の武将」と、県文化財保護協会の大沼芳幸さんの講演「諸説あり『奇々麒麟』本能寺の変を近江的に分析する」がある。先着80人、申し込みは21日から受付開始。
 企画展の開館日時は2月15日までの午前10時から午後6時(土日のみ午後5時)まで。観覧無料。休館は月曜、第3日曜、祝日、最終木曜。問い合わせは同館☎(48)2077。

2017年1月7日土曜日

井伊直虎と直政の幼少期のすべて

 彦根藩の初代藩主・井伊直政の養母として知られる次郎坊師は井伊直虎と名乗り、井伊家存続の危機にあった時期に「女城主」として活躍した。NHK大河ドラマの主人公・直虎が過ごした井伊家発祥の地、静岡県浜松市引佐町井伊谷を本紙記者が訪れた(直虎と虎松(後の直政)の絵は光山坊提供)=文と写真・山田貴之
 直虎は井伊家二二代当主・直盛の一人娘として生まれた。直盛には男の子が生まれなかったため、直虎の許嫁(いいなずけ)だったいとこの直親に家督を継がせる予定をしていた。直虎が誕生した年は明らかになっていないが、直親と同世代だったことから、天文4年(1535)か同5年だと考えられる。
 直親の父・直満が今川家に殺され、9歳だった直親の命も狙われたため、その身は秘密裏に信州に隠された。直虎は直親が亡くなったと思い、井伊谷にある井伊家の菩提寺・龍潭寺で出家し次郎法師と名乗った。
 11年後に井伊谷に戻った直親は直盛の養子となり、奥山家の娘と結婚し、永禄4年(1561)に男の子が誕生。虎のように強く、常磐の松のように末永く栄えることを願って虎松と名付けられたとされる。この虎松が後に井伊家二四代当主・彦根藩初代藩主になる直政だ。
 虎松が生まれた年は武田信玄と上杉謙信による川中島の合戦と同年。その前年の桶狭間の戦いでは直盛が戦死するなど、戦乱まっただ中での誕生だった。また、虎松誕生の1年後には直親が謀殺され、その翌年には再び当主を継いでいた曾祖父の直平も毒殺された。
 わずか3年間で当主を次々と亡くした井伊家の家督を継ぐ者は、幼い虎松しかいなかった。井伊家では虎松の母が直親の死後、再婚したため、虎松を養育できる者を模索。その時に登場してきたのが女性ながら井伊家を支えていた直虎だった。
 この期間の逸話として、昭和46年刊行の改訂「近江国坂田郡志」の第6巻には、「永禄7年4月から2カ月間、今川氏真の詮議を避けて、井伊万千代(虎松)が眞廣寺(米原市)に滞在した」と記されており、これが事実ならば、直政が幼少期にすでに近江入りしていたことになる。
 永禄11年(1568)に徳川家康が三河から遠州(遠江)に進出すると、井伊家が治めていた遠江は徳川家の支配下になった。虎松の命に危険を感じた龍潭寺の住職・南渓(なんけい)和尚は、虎松を奥三河の鳳来寺に逃がし、虎松は同寺で8歳から14歳ころまで、かくまわれたとされる。
 南渓和尚について、龍潭寺の前住職・武藤全裕さん(82)は「軍師のような役割を果たしていた」と解説。虎松が15歳になった天正3年(1575)に直親の13回忌法要が営まれた際、直虎や南渓和尚らは虎松を家康の家臣にさせることを決断した。直親と親交があった家康は、自身の幼名・竹千代にちなんで、虎松に万千代を名乗らせ、300石を与えた。
 万千代はその後も家康の元で武功を立て、本能寺の変が起こった天正10年(1582)の11月、元服した万千代は直政と名乗り、武田家の家臣団が井伊家に加えられ、赤備えが誕生。直政は「井伊の赤鬼」と呼ばれた。一方で、直虎は直政の出世を見届けながら、天正10年に死去。墓は龍潭寺境内の井伊家の墓所内にあり、直親の隣に眠っている。 
   
 井伊谷にある龍潭寺は奈良時代に行基菩薩が開いたと伝えられている。
 元々、井伊谷の地域は「井の国の大王」が聖水祭祀を務めた「井の国」の中心地とされ、水にまつわる伝説が多く残るという。
 平安時代には井伊家の祖・共保が生まれ、遠江の有力武士となった。同寺の近くには共保が近くで生まれたとされる「共保出生の井戸」がある。その後、井伊家は鎌倉時代に源頼朝に仕え、南北朝時代には後醍醐天皇の皇子・宗良親王を城に迎え、北朝軍と戦った。同寺に隣接する井伊谷宮には宗良親王がまつられている。
 室町時代には、井伊家二十代・直平が帰依した黙宗瑞淵和尚を新たに同寺の開山として迎えたことで、遠州地方に臨済宗が広められた。
 同寺の1万坪(3万3000平方㍍)余りの境内には、彦根藩四代・直興が延宝4年(1676)に再建したという本堂、元禄15年(1702)に建てられた開山堂、共保・直盛・直政の座像や直弼の位はいなどが安置されている霊屋などの建物がある。庭園は長浜出身の文化人・小堀遠州が江戸時代初期に造った池泉鑑賞式。彦根藩二代藩主・直孝の依頼で造ったとされる。昭和11年に国の名勝に指定されている。
 大門と仁王門の間にあるご神木のナギの木は樹齢約400年とされる。井伊家存続が危ぶまれていた時代、直政の母は境内の松岳院内に身を寄せながら、地蔵を境内にまつり、その隣に息子の無事の成長を願って、ナギの木を植えたという。
 平成22年10月16日には、浜松市で開かれていた「奥浜名湖『井の国』千年祭」にひこにゃんが訪問。橘(たちばな)の幼木を龍潭寺の入り口に植えた。
 なお彦根市古沢町の龍潭寺は、慶長5年(1600)に直政が佐和山城主となったのを機に、昊天禅師を招いて山麓に建てられた。こちらの庭園も遠州が造園に関わった。
 このほか、井伊家の城としては井伊谷城があり、直虎らもこの城を拠点にしていたとみられる。現在は井伊谷城跡城山公園として整備されている。
 そして、山下には井伊家館跡(井伊城本丸跡)に残る「井殿の塚」があり、今川家によって謀殺された井伊直満・直義兄妹の輪塔がある。
 (※=この特集記事は本紙平成28年の元日号で掲載した内容です。)

2012年5月8日火曜日

金沢の先進城下町と彦根の発展途上城下町

 休暇を利用し、石川県を訪れたが、そのうち彦根市の理想型ともいえる金沢市の旧城下町の風情漂う様には深く心酔した。
 金沢の旧城下町は、日本三大庭園の一つ 兼六園や金沢城公園から約100㍍~500㍍西に向かった位置にあり、その代表格は加賀藩の前田家の重臣だった長家から「長町武家屋敷跡」と呼ばれている。
 加賀藩士の上・中級の武士が暮らしていた屋敷跡が多く残っており、土塀や石畳、用水などが整備されている。また屋敷の公開、資料館としての活用、あめや麩(ふ)の専門店もある。もちろん一般の民家もあるが、土塀を備えたり、町並みに合ったたたずまいに工夫したり、住民も協力している姿勢がうかがえた。
 昼食時には、界隈の一角にあった九谷焼の展示(鏑木商舗)兼飲食店(おいしいいっぷく鏑木)の古民家に立ち寄り、運良く別邸の茶室で食事をとることができた。
 ほかにも長町武家屋敷跡の周囲には、江戸後期に藩が近辺に点在していたお茶屋を集めた茶屋街や料亭、芸子の置屋などが残る、にし茶屋街・寺町地区とひがし茶屋街・卯辰山山麓寺院群があり、いずれも伝統的建造物保存地区に指定されている。
 さて、彦根の旧城下町はどうだろうか。江戸時代の古民家を活用しての飲食店はいくつかあり、金沢にひけをとらないと思うが、観光面での活用という視点で見た場合は現時点では金沢の足下にさえ及ばない。
 足軽屋敷が残る芹橋地区、江戸期の建物がある本町や花しょうぶ通り、七曲り通りなどが(当面の)対象になるが、その整備は金沢から20年、いや30年以上遅れているといえよう。文化財の指定は少しずつ進んではいるが、線としてつながっておらず、花しょうぶ通り以外の各地域住民は同じ方向さえも向いていないようだ。
 各地域住民が、暮らしへの影響から観光との繋がりを否定するのか、市の観光発展のために一肌脱ぐのか・・・。観光先進地の金沢に是非また訪れたいと強烈に感じた小生は、対象となる(彦根の)地区に住んでいないため無礼を承知で提案するが、彦根も是非、金沢(市民)の観光スタイルを目標にしていただきたい。   (山田貴之)

2012年1月11日水曜日

多景島と見塔寺のすべて

 彦根市民でも「あの島、彦根だったの」「たけしま?、竹生島のこと?」などの声があがるほど、あまり知られていない琵琶湖上の小島 多景島(たけしま)。
 彦根市八坂町に位置し、彦根港から一日1便で船も出ている(冬期は欠航)。島の特徴と島にある見塔寺(けんとうじ)の歴史を紹介する。(文・写真=山田貴之)
琵琶湖三島の一つ
 多景島は、彦根港から沖へ約6㌔いった湖上にあり、周囲約600㍍・幅約200㍍×約70㍍の小島。湖底から突き出た岩山で、岩質は花こう岩。竹が群生していることから竹島や、「神仏のおわします島」という意味で嶽島と記される時代もあった。
 多景島という名は、湖上から眺めるとさまざまな景色が見られ、また島から四方を望むと絶景であることから、「景色の多い島」より名付けられた。
 琵琶湖にはほかに竹生島(長浜市)、沖島(近江八幡市)があり、多景島と合わせて琵琶湖三島と言われている。
直澄支援で見塔寺建立
 多景島には見塔寺という寺院がある。
 明暦元年(1655)の夜、長浜にある妙法寺の住職だった日靖(にっせい)上人が夢の中で出会った貴人と島へ渡り、そこで貴人から「お前たちの住んでいる娑婆世界に、ひとつの霊場がある。お前はその地を探して住み、自行化他(修行し他をも導く)に勤め、退転してはならない」とのお告げを受けた。その後、湖上に多景島があるとの話を聞き、向かうと夢で見た島で、以降、島に常駐するようになったという。
 見塔寺の建設には、当時の彦根藩三代目藩主・井伊直澄から多大な支援を受けた。直澄は船と多くの人手を手配し、岩山の地に寺が建てられるよう、荒神山から土を運ばせ、必要な資材を運搬し寺を建立。寺は彦根城の裏鬼門の役割を果たし、釈迦堂には藩主や井伊家代々の位牌が安置されている。
巨石に「南無妙法蓮華経」
 万治4年(1661)には、日靖上人が職人に作らせた高さ約8㍍の石の塔が、直澄の援助を得て島に運ばれ、宝塔として建立。また寛文3年(1663)には鐘が作られ、鐘に刻まれた銘文は直澄の母(二代藩主・直孝の側室でもある)を姉にもつ元政(げんせい)上人作。元政上人は出家前は直孝に小姓として仕え、その後は江戸時代を代表する文人としても名をはせた。見塔寺の建立の際にも尽力したとされる。
 当時の漁師の間では「多景島から法華教を読む声が聞こえる」との噂が広がり、島に入ると高さ約16㍍・幅約4㍍の巨石から声が聞こえたため、その岩を「不思議の経岩」と呼んでいたとされる。
 そのため、日靖上人は元禄5年(1692)から約3年かけて、その巨石の上から運搬用のモッコに乗りながら「南無妙法蓮華経」の文字を刻んだとされる。題目の一文字は米一俵が入る大きさ。なお、十三代藩主・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された時には、巨石の向かって左上側から血がしたたり落ちたとも言い伝えられている。
五箇条の御誓文の柱
 大正15年(1926)4月には、明治政府の基本方針・五箇条の御誓文を刻んだ「誓の御柱」(高さ約18㍍)が建立された。
 その5年ほど前に当時、滋賀県警本部長を務めていた水上七郎が計画を発表し、広く建設資金を募り、同14年に起工式を行い、翌年完成した。青銅製で5角形となっており、各面に五箇条の御誓文の一文ずつが記されている。碑文は閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王の筆。柱の下部には菊花紋章がはめ込まれており、礎には大正天皇の皇后の鏡が納められている。
勝見住職28歳で出家
 見塔寺の勝見龍照(りゅうしょう)住職(64)には昨年末、本紙に職場体験に来ていた彦根東中生がインタビュー。
 「住職になったきっかけは」「356日間、続けていることは」などを質問し、勝見住職は「最初は電気関係の仕事をしていが、宗教にふれる機会が増え28歳の時に出家した」「(柳川町の別院で)毎朝午前3時半から2時間、お参りをしている」などと話した。
彦根港から1日1便
 多景島へは彦根港から1日1便で琵琶湖観光船「わかあゆ」号が出ている。
 ただし冬期などは欠航で、運航期間は3月第2土曜日~11月30日。中学生以上1720円、小学生860円。午後3時10分発・同30分着、滞在時間は30分で、彦根港帰着は午後4時20分。
 問い合わせはオーミマリン☎0749(22)0619。

2010年4月7日水曜日

彦根藩二代目・井伊直孝の「産湯の井戸跡」 誕生の地・静岡県焼津市に残る

 静岡県焼津市に彦根藩二代目藩主・井伊直孝の「産湯の井戸跡」があることがわかり、早速、現地に訪れた。
 直孝は天正18年(1590)に、父で後に初代藩主となる直政の二男として駿河国中里(焼津市中里)で生まれ、1年ほど後には井伊家の所領だった上野国安中(群馬県)に移り、幼少期を過ごした。
 母親の印具(いんぐ)は、伝承では直政の正室の侍女で、身ごもったため屋敷を出て、中里で直孝を産んだとされる。
 焼津に残る産湯の井戸は、直孝が産まれてすぐの産湯の水に使われたといわれており、井伊家ゆかりの若宮八幡宮近くに位置する。直孝は40歳の時に現地を訪れ、衰退していた若宮八幡宮を再興している。
 現在は民家の敷地の一画に、ひっそりとたたずんでおり、井戸のそばに「井伊掃部頭直孝朝臣産湯之井」と刻まれた石碑が建っている。地元の市民にもあまり知られていない。
 ちなみに、「産湯の井戸跡」を後にした小生は、井伊家発祥の地・浜松市引佐町井伊谷を訪問。井伊家菩提寺・龍潭寺やその周辺に立ち寄り、名勝に指定されている庭園や井伊家墓所、井伊谷宮などを見学し、彦根の更なる繁栄をお願いした。(山田貴之)