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2017年10月24日火曜日

彦根高等商業学校の研究をしている滋賀大大学院の今井綾乃さんに研究の経緯や新聞の面白さ聞く

 新聞週間(15日~21日)に合わせて滋賀彦根新聞は2回に分けて特集記事を掲載。初回は、昭和初期の新聞を参考に滋賀大学経済学部の前身、彦根高等商業学校に関する研究をしている滋賀大大学院経済学研究科3年の今井綾乃さん(29)=愛知県一宮市=に、研究の経緯や新聞の面白さなどを聞いた。
(聞き手・山田貴之)
 今井さんは中学、高校の時に愛知県内の新聞社で仕事体験をしていたといい、「子どもの時から新聞に関心があった。自分の書いた記事が載った時はうれしかった」と当時を振り返った。
 大学に入ってからも新聞を読んでいたが、彦根高商に関する研究を始めると同時に「1、2ページしか読んでいなかったが、ほかのページも読むようになった」「特にインターネット上では取り上げられない地域面がおもしろい。無名の人たちが日本の社会の一部を作っていることもわかった」と新聞の魅力について解説した。
 彦根高商の研究を始めた理由として今井さんは「誰も研究していないことをしたかった。また滋賀大への恩返しという気持ちを込めて、その原点について研究しようと思った」と説明。「私に与えられた役割だと思って、使命感を持って研究したい。ゴールを決めずに大学院修了後も彦根高商について調べていきたい」と抱負を語った。
 今井さんは研究の中で、昭和3年から同12年にかけての大阪朝日新聞と大阪毎日新聞に掲載されている彦根高商についての記事を抜粋。昔と現在との新聞の違いについては「昔は個人的な(スキャンダル的な)記事が多かったが、現在の新聞は難しいことをわかりやすく書いてある。新聞を読まない人が多いが、新聞でしかわからないこともあるので、読んでもらった方が良いと思う」と話していた。
 今井さんは「彦根高商のカリキュラムの変遷について」をテーマに研究しており、現在、滋賀大総合研究棟1階で昭和3年4月から翌年12月までの彦根高商に関する掲載紙を展示中。今月27日まで第1期展をしており、19日午後0時10分~はギャラリートークも行う。第2期は11月6日~来年1月26日、第3期は来年2月1日~3月30日。開館は平日の午前9時午後5時。入館無料。
 ※【彦根高商】大正11年(1922)10月20日に誕生し、翌年に最初の入学式が挙行。同14年には校舎や図書館などが完成し、開校式が開かれた。昭和19年(1944)4月に彦根経済専門学校と改名、5月には彦根工業専門学校へと変更。終戦後の同21年4月に再び彦根経済専門学校となり、同24年5月に滋賀師範学校・青年師範学校(大津の教育学部)と合併して滋賀大学となった。

2017年1月7日土曜日

井伊直虎と直政の幼少期のすべて

 彦根藩の初代藩主・井伊直政の養母として知られる次郎坊師は井伊直虎と名乗り、井伊家存続の危機にあった時期に「女城主」として活躍した。NHK大河ドラマの主人公・直虎が過ごした井伊家発祥の地、静岡県浜松市引佐町井伊谷を本紙記者が訪れた(直虎と虎松(後の直政)の絵は光山坊提供)=文と写真・山田貴之
 直虎は井伊家二二代当主・直盛の一人娘として生まれた。直盛には男の子が生まれなかったため、直虎の許嫁(いいなずけ)だったいとこの直親に家督を継がせる予定をしていた。直虎が誕生した年は明らかになっていないが、直親と同世代だったことから、天文4年(1535)か同5年だと考えられる。
 直親の父・直満が今川家に殺され、9歳だった直親の命も狙われたため、その身は秘密裏に信州に隠された。直虎は直親が亡くなったと思い、井伊谷にある井伊家の菩提寺・龍潭寺で出家し次郎法師と名乗った。
 11年後に井伊谷に戻った直親は直盛の養子となり、奥山家の娘と結婚し、永禄4年(1561)に男の子が誕生。虎のように強く、常磐の松のように末永く栄えることを願って虎松と名付けられたとされる。この虎松が後に井伊家二四代当主・彦根藩初代藩主になる直政だ。
 虎松が生まれた年は武田信玄と上杉謙信による川中島の合戦と同年。その前年の桶狭間の戦いでは直盛が戦死するなど、戦乱まっただ中での誕生だった。また、虎松誕生の1年後には直親が謀殺され、その翌年には再び当主を継いでいた曾祖父の直平も毒殺された。
 わずか3年間で当主を次々と亡くした井伊家の家督を継ぐ者は、幼い虎松しかいなかった。井伊家では虎松の母が直親の死後、再婚したため、虎松を養育できる者を模索。その時に登場してきたのが女性ながら井伊家を支えていた直虎だった。
 この期間の逸話として、昭和46年刊行の改訂「近江国坂田郡志」の第6巻には、「永禄7年4月から2カ月間、今川氏真の詮議を避けて、井伊万千代(虎松)が眞廣寺(米原市)に滞在した」と記されており、これが事実ならば、直政が幼少期にすでに近江入りしていたことになる。
 永禄11年(1568)に徳川家康が三河から遠州(遠江)に進出すると、井伊家が治めていた遠江は徳川家の支配下になった。虎松の命に危険を感じた龍潭寺の住職・南渓(なんけい)和尚は、虎松を奥三河の鳳来寺に逃がし、虎松は同寺で8歳から14歳ころまで、かくまわれたとされる。
 南渓和尚について、龍潭寺の前住職・武藤全裕さん(82)は「軍師のような役割を果たしていた」と解説。虎松が15歳になった天正3年(1575)に直親の13回忌法要が営まれた際、直虎や南渓和尚らは虎松を家康の家臣にさせることを決断した。直親と親交があった家康は、自身の幼名・竹千代にちなんで、虎松に万千代を名乗らせ、300石を与えた。
 万千代はその後も家康の元で武功を立て、本能寺の変が起こった天正10年(1582)の11月、元服した万千代は直政と名乗り、武田家の家臣団が井伊家に加えられ、赤備えが誕生。直政は「井伊の赤鬼」と呼ばれた。一方で、直虎は直政の出世を見届けながら、天正10年に死去。墓は龍潭寺境内の井伊家の墓所内にあり、直親の隣に眠っている。 
   
 井伊谷にある龍潭寺は奈良時代に行基菩薩が開いたと伝えられている。
 元々、井伊谷の地域は「井の国の大王」が聖水祭祀を務めた「井の国」の中心地とされ、水にまつわる伝説が多く残るという。
 平安時代には井伊家の祖・共保が生まれ、遠江の有力武士となった。同寺の近くには共保が近くで生まれたとされる「共保出生の井戸」がある。その後、井伊家は鎌倉時代に源頼朝に仕え、南北朝時代には後醍醐天皇の皇子・宗良親王を城に迎え、北朝軍と戦った。同寺に隣接する井伊谷宮には宗良親王がまつられている。
 室町時代には、井伊家二十代・直平が帰依した黙宗瑞淵和尚を新たに同寺の開山として迎えたことで、遠州地方に臨済宗が広められた。
 同寺の1万坪(3万3000平方㍍)余りの境内には、彦根藩四代・直興が延宝4年(1676)に再建したという本堂、元禄15年(1702)に建てられた開山堂、共保・直盛・直政の座像や直弼の位はいなどが安置されている霊屋などの建物がある。庭園は長浜出身の文化人・小堀遠州が江戸時代初期に造った池泉鑑賞式。彦根藩二代藩主・直孝の依頼で造ったとされる。昭和11年に国の名勝に指定されている。
 大門と仁王門の間にあるご神木のナギの木は樹齢約400年とされる。井伊家存続が危ぶまれていた時代、直政の母は境内の松岳院内に身を寄せながら、地蔵を境内にまつり、その隣に息子の無事の成長を願って、ナギの木を植えたという。
 平成22年10月16日には、浜松市で開かれていた「奥浜名湖『井の国』千年祭」にひこにゃんが訪問。橘(たちばな)の幼木を龍潭寺の入り口に植えた。
 なお彦根市古沢町の龍潭寺は、慶長5年(1600)に直政が佐和山城主となったのを機に、昊天禅師を招いて山麓に建てられた。こちらの庭園も遠州が造園に関わった。
 このほか、井伊家の城としては井伊谷城があり、直虎らもこの城を拠点にしていたとみられる。現在は井伊谷城跡城山公園として整備されている。
 そして、山下には井伊家館跡(井伊城本丸跡)に残る「井殿の塚」があり、今川家によって謀殺された井伊直満・直義兄妹の輪塔がある。
 (※=この特集記事は本紙平成28年の元日号で掲載した内容です。)

2014年8月13日水曜日

靖国神社と護国神社の違い

 全国にある護国神社の大元が東京都千代田区にある靖国神社―、そう誤解している人もいるのではないか。しかし、調べると護国神社と靖国神社は、あくまで対等の関係にあることがわかる。
 確かに全国の護国神社に祀られている御英霊の多くは靖国神社にも合祀されているが、明治2年6月29日に明治天皇のおぼし召しで東京招魂社として創建された靖国神社とは違い、護国神社は地元の有志たちによって設立されたという違いがある。全国47都道府県のうち、東京都と神奈川県のみ護国神社がなく、靖国神社が両都県の護国神社の役割も果たしている。
 靖国神社に対しては、いわゆる戦犯の合祀に対して参拝に反対する意見もあるが、同神社は全国の護国神社同様、戦没者の御英霊を偲び、遺徳を称え、感謝の誠を捧げる神聖な場所であり、戦争を美化したり、その責任を追及したりする場ではない。
 滋賀県護国神社の山本賢司宮司は「遺族であるなしに関係なく、生き残った私たちが感謝の気持ちを御英霊に向け、靖国神社と護国神社へお参りすることで、神様の力は強まり、その力が強くなることで日本を守ってくださる」と話している。【山田貴之】

滋賀県護国神社の歴史 御英霊に感謝の誠を

 慶応4年~明治2年(1868年〜69年)の戊辰戦争以降に国のために戦って亡くなった滋賀県内の戦死者の御英霊3万4750柱を祀っている彦根市尾末町の県護国神社(山本賢司宮司)。建立された時期やその変遷、参拝の意義などを紹介する。【山田貴之】
  明治2年9月、彦根藩は戊辰戦争の戦死者をとむらうため、古沢村(現・古沢町)の地に招魂碑を建立。同8年には内務省の発令と旧彦根藩主・井伊直憲公の発議により、旧彦根藩士507人と協議の上で現在の地に招魂社を造営することになり、神社創立委員長には旧彦根藩士で衆院議員も務めた大東義徹が就任した。翌年5月に竣工され、御英霊26柱が祀られた。この時には埋木舎の敷地の一部の土地が寄付されている。
 昭和14年(1939)4月に内務省の告示により、全国の招魂社が護国神社と改名され、尾末町の招魂社も滋賀県護国神社となった。当時は日中戦争の最中で、新たな戦死者の合祀が予想されたため、神域の拡張が計画。滋賀県は同年10月、護国神社のそれまでの約3400坪の敷地面積から、約8100坪に拡張し、さらに多くの参拝者の収容を確保するため、当時はいろは松に面していた本殿への正面入り口を彦根駅方面に変更して、本殿以外の建物を新改築する案を発表した。
 しかし、護国神社を拡張するには、多数の民家の立ち退きが必要だったため、地元住民から反対の声があがった。翌年10月には滋賀県総合運動場の隣接地に移転することを求める要望書が県に提出されたが、結局は行政と地権者との間で話し合いが行われ、同16年に現在の地で造営工事が行われた。
 昭和20年8月15日に敗戦を迎え、占領軍の干渉により、滋賀県護国神社は沙々那美(さざなみ)神社と改名。その後、サンフランシスコ講和条約の締結で主権を回復し、同28年10月に再び護国神社という名称に戻された。
 同32年4月に彦根市民会館が建設され、社務所などが現在地へ移築。同時に、同25年に井伊神社から護国神社の境内(現・市民会館)に移設されていた井伊家の能舞台も社務所内に移された。能舞台はその後、同60年に彦根城博物館が建設されることに伴い、同館内の元の場所へ移築された。県護国神社では平成7年4月に終戦50周年記念大祭が営まれ、同17年7月には同神社の維持に協力する団体・崇敬奉賛(すうけいほうさん)会が設立。この年の10月には終戦60周年記念の臨時大祭が営まれた。