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2020年1月13日月曜日

河瀬地区「まちぶら」に記者同行

 彦根市の河瀬地区の寺社を親子連れで歩く「かわせスタンプラリー“まちぶら”』が開かれ、本紙の山田貴之記者も同行した。主な寺社を紹介する。

普賢寺 広野に昭和初め建立
 河瀬地区は歴史ある昔ながらの地域と新興住宅地が混同しており、児童数も増加傾向にある。河瀬学区社協は地元の歴史的な場所を子どもや親に知ってもらおうと「まちぶら」を企画。幼稚園から河瀬小5年生の18人を含む42人が参加し、約5㌔を約3時間かけて歩いた。
 河瀬地区公民館をスタートし、まず向かったのが広野町の普賢(ふげん)寺。長年、広野には寺がなかったが、全国水平社の部落解放運動の中で昭和6年(1931年)に建立。一時は保育所(後のふたば保育園)としても使われていた。境内には親鸞聖人像が建つ。
 2カ所目は広野町の春日神社。巨大なケヤキの神木が立っており、地元の盆踊りの際に賑わう。昔は相撲も行われていたという。

国府君神社 行願寺 月通寺
 3、4カ所目は犬方町の国府君(こうのき)神社と隣接する行願(ぎょうがん)寺。国府君神社は672年の壬申の乱で拉致された大海人皇子(後の天武天皇)が阿自岐(あじき)村の六人衆に救出され、犬上川南岸にかくまわれた。天武天皇の没後に皇后が持統天皇として即位した際、夫をかくまった宝殿に同神社名をつけたとされる。
 行願寺は、天台宗の行願という僧が普賢菩薩を本尊に812年に創建。火災や浄土真宗への改宗を経て現在に至る。
 5カ所目の葛籠町の月通寺は真言宗の寺院。本堂には奈良時代の僧・行基が彫像したという地蔵菩薩が安置。山門前の石碑に記された「不許酒肉五辛入門内」は「酒や肉、ニンニク、ネギ、ニラ、アサギ、ラッキョウの入門は許さない」という意味。江戸時代に禅宗の地福寺と称されていた名残だ。

足利家の子弔った「産の宮」
 6、7カ所目は葛籠町の若宮八幡宮「産の宮」と了法寺。南北朝の争乱時代の文和5年(1356年)、足利尊氏の子・義詮が京都への帰還途中、同行していた妻が産気づき、この地で出産。野村、高橋、小沢らの家臣9人を残したが、生まれた男子は幼くして亡くなった。家臣たちは竹と藤蔓(ふじづる)で作った葛籠を生産するようになり、この地に一社を建てた。現在は安産祈願の参詣者が多いという。
 義詮の妻は産んだ男子の死去後、悲しみのあまり髪を下ろして醒悟比丘尼(せいごびくに)と称して一庵(松寺)を建てた。その松寺は度重なる戦火で焼失したが、醒悟比丘尼の位牌は了法寺に安置。毎年正月11日に家臣の末えいの家で祭礼が行われる。了法寺は天文8年(1539)に貞安上人が織田信長の保護を受けて開山した浄土宗の寺。

井伊直通の元近侍の塾跡
 最後の8カ所目は松雨亭(しょううてい)跡。彦根藩士・澤村家に生まれた澤村琴所(きんしょ)(1686~1739)が1719年頃に案内板がある地の約70㍍西側に開いた塾。琴所は14歳で彦根藩主五代・直通の近侍(きんじ)に登用され、宋学や古学を学んだ。32歳の時に松雨亭を開塾し、近隣の村人たちに農業振興や社会政策の改善を教えた。高宮町の徳性寺に墓碑がある。
 「まちぶら」を終えた後、河瀬小2年生の井上由奈さん(8)は「色んなことを知れて楽しかった」と笑顔を見せた。河瀬学区社協会長の小林伊三夫さん(67)は「子どもたちにも楽しんでもらえたのでは。これからも世代を超えた交流ができる企画をしていきたい」と話していた。
 (※各寺社の説明は河瀬地区社協の配布文や現地の案内板に基づきます)。

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