国道8号線の米原バイパスの建設工事に伴って昨年度から佐和山城跡の発掘調査を実施。今年度は城下町跡エリアの1万4209平方㍍で4月から来年3月まで調査している。
今回は旧佐和山城の内堀から、南北に整備された当時のメイン道路の本町筋まで約100㍍の中間地点に位置する約1500平方㍍を発掘。その結果、旧佐和山城ふもとの武家屋敷から本町筋に東西でつながっていたとみられる最大幅約5㍍の道路や、南から北へ向かって流れていたとされる幅約2・6㍍の溝、その道路と溝の交差地点にかかっていた橋台などの遺構が見つかった。
橋台は約5㍍にわたって掘り広げられた溝の両岸に大小の自然石が積まれた構造で、南側の石積みが2段分で高さ約60㍍にわたって残っているが、北側がほとんど取り除かれている。本来はさらに1、2段分の石が積み上げられていたという。城下町の改変により、橋や橋台の撤去、溝の埋め立てが行われた後、その一帯には複数の掘立柱建物が建てられた。城下町の廃絶後は水田化された。
三成時代の遺構か
東西道路や橋、溝、掘立柱建物の整備時期としては、ほかに見つかった陶磁器や刀装具など遺物から桃山時代後期(16世紀末)から江戸時代初期(17世紀初頭)までの時期だとされる。
江戸時代に作られた絵図にも今回見つかった道路や溝、橋などは記されていない。佐和山城には石田三成が天正19年(1591)4月に入城し、文禄4年(1595年)に城主となり、翌年2月頃に城下町の「惣構」を改修した。今回の発掘調査で見つかった東西道路や溝などの改造時期について、長浜市歴史遺産課の太田浩司さんは「三成の入城時か惣構の改修時が考えられる。溝を埋めた後に再整備している大規模さから考えると、その時期は後者が適当では」と話している。また滋賀県立大学の中井均教授は「石垣による橋台と大溝は、豊臣政権が城下町の都市設計をどのように考えていたかを比較できる実に重要な発見だ」とコメントしている。
現地説明会についての問い合わせは県文化財保護協会☎077(548)9780。
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