佐和山近くの愛宕(あたご)山にある天台宗・仙琳寺(内田一明住職)=古沢町=は、歴史好きの市民でさえ詳細を知らない、知る人ぞ知る「隠れた名所」だ。
佐和山城落城の直後を描いたという「彦根御山絵図」(江戸時代中期)では、現在の仙琳寺の場所に、「愛宕」という字と鳥居があるため、江戸時代以前には京都の愛宕社から分祀された社堂があったとされる。元禄8年(1695)に彦根藩四代目藩主・井伊直興がその愛宕社を修理。十一代・直中時代には諸堂や門なども整備され、文化3年(1806)までに現在の形に。
古沢町のJRを挟んで西側(警察署側)から、寺へつながる専用の緑の鉄橋を渡り、階段を数段あがると、堂々とそびえる楼門が建つ。そこをくぐり、階段をあがると、平安時代末期から鎌倉時代に作られた阿弥陀如来坐像を本尊とする本堂(異なる堂を後に転用)があり、左側の中門を入ると、愛宕社、観音堂など諸堂が並んでいる。本堂には茶室や庭園跡があり、楼門の左側の斜面には領民が三成を慕って作ったとされる石田地蔵もある。
寺と佐和山の間には竹やぶが生い茂っているが、市民有志が整備をしており、その作業中には井戸3つと石垣跡を確認(本紙25日付で既報)。三成時代に仙琳寺のあった場所に茶室が設けられて、そこで三成が茶の水をくんだとの伝承もあるが、市文化財課によると、三成時代、そこには何らかの「丸」があったらしいが、三成が過ごしていたかは不明だという。
直興の子・本空病死も
弟子・義空が托鉢し建立
【仙琳寺の歴史】
四代・井伊直興は、息子・千代之助(1711~70)の行く末を案じ、深く帰依していた松雲寺(旧愛東町)住職の南嶺慧詢(なんれいえじゅん)に託した。千代之介は出家後、弁慧(べんえ)と改名。南嶺の死後、直興の命により京都に上り、寺院・般舟三昧(はんじゅざんまい)院に入って、名を本空と改め、その後、同院十五代目の住職に。自らで寺の建立を決意するが、病死した。
本空の弟子・義空は、預かった金が天明8年(1788)の大火で焼失するという災難にあうが、直興から本空への遺書を持って愛宕山の庵に移り、彦根の町で托鉢を行う。それを知った十一代・直中が寺院の普請を進め、寛政10年(1798)に本空を初代住職にする命を出し、そのころ「仙琳寺」となったとされる。
直中の子で十三代・直弼の時代には、直弼が仙琳寺の五代目住職・慈空宛てに送った嘉永6年(1853)の書状で愛用の茶器を贈ったことが明記。嘉永5年から安政5年(1858)までの江戸・彦根での茶会記「懐石附(づけ)」では直弼が仙琳寺での茶会に4回出席。嘉永4年から安政4年までの16回の茶会を記した「彦根水屋帳」では直弼が亭主を務める茶会に慈空が3回参加しているなど、直弼との親密ぶりがうかがえる。 (文・写真=山田貴之)
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