2016年10月21日金曜日

稲部遺跡から邪馬台国時代の鍛冶工房跡や物流拠点の巨大な倉庫とみられる大規模な建物跡など発見、首長居館跡もあり当時の中心地か

 彦根市稲部町と彦富町にかけての稲部遺跡から、弥生時代後期から古墳時代初期(2世紀から3世紀半ば)にかけての鍛冶工房跡や、古墳時代初期から中期(5世紀)にかけての物流拠点の巨大な倉庫とみられる大規模な建物跡などが発見。「倭の国の成り立ちを考える上で、今までにない極めて重要な遺跡」として、専門家からは保存を求める意見が出ている。
 稲部遺跡では、宅地造成工事に伴い昭和56年に約500平方㍍で第1次調査が始まった。以降、市道芹橋彦富線・稲部本庄線の道路改良工事に伴って、第6次が平成27年6月から今年3月まで約1042平方㍍の範囲で、第7次が昨年11月から現在まで約430平方㍍で行われている。
 第6次では、弥生時代末期から古墳時代初期にかけて数回建て替えられた4棟の掘立柱建物跡が見つかっており、柱の穴の上層部や付近のくぼ地からは計12個の桃の種が出土。桃は弥生時代に中国大陸からもたらされ、古代中国では不老長寿や魔除けなどの力を持つ神聖な果実だったとされる。
 このため、これらの建物群は集落の中心的な役割を果たす何らかの儀礼を行う施設や倉庫と考えられ、祭祀空間だったとされる。
 第7次では、弥生時代末期から古墳時代初期にかけての30棟以上の方形の竪穴建物跡が発見。そのうち23棟からは鉄の破片や塊が約6㌔㌘出土しているため、鉄製の武器や工具を作っていた鍛冶工房だったとされ、当時の国内最大規模の鉄器生産センターだった可能性もある。
 鉄器の生産が始まった後には大型の独立棟持柱建物と呼ばれる1棟が築かれている。この建物は隣接する鍛冶工房を管理する施設で、首長の居館域の一部や倉庫、儀礼施設の空間だったとされる。古墳時代前期には当時のものとしては奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡にある敷地面積約239平方㍍に次ぐ188平方㍍の巨大な建物が建てられ、建物跡の柱の穴からは桃の種が出土したため、建物の廃絶儀礼が行われたとされる。また古墳時代前期には145平方㍍のもう1棟の大型建物が建設。総柱建物と呼ばれる工法だったことから、日本屈指の規模の石川県七尾市にある万行遺跡と同規模の巨大倉庫とされ、物流の中心地だったことがわかる。
 これらの発見により、稲部遺跡の集落は弥生時代後期から古墳時代中期まで約400年間続き、3世紀前半の邪馬台国時代に最盛期を迎え、祭祀が行われた大型建物や大規模の鍛冶工房が形成。3世紀後半には巨大な建物も建てられていたことがわかる。また溝からは朝鮮半島の南部から渡来人が持ち運んだり、日本の人々が真似て作ったりしたとみられる韓式系土器も見つかっている。
 市教委文化財課では▽北陸や美濃、尾張など東日本と近畿をつなぐ3世紀の物流の中心的な遺跡だった▽祭祀都市、政治都市の面を強く持ち、工業都市としての面も合わせ持つ当時の中枢部だった▽4世紀から5世紀には物流拠点として継続して発展し、朝鮮半島と交流して当時の先端技術を導入していた可能性がある▽王権との関係を含めて、荒神山古墳の築造につながる遺跡―だとしている。
 奈良県立橿原考古学研究所共同研究員の森岡秀人さんは「単なる農耕集落とは異なり、首長の居館などを含む遺構群から形成され、邪馬台国時代の国家形成の有り様を考える重要な遺跡だ」とした上で「抜本的な保護対策を早急に講ずるべきで、保存と活用を慎重に考慮してほしい」と、稲部遺跡の保存を求めている。
 滋賀県立大学人間文化学部の定森秀夫教授は「豪族の居館と思われる建物などの遺構が検出されたことは荒神山古墳の築造背景を考える上で極めて重要」「鉄素材を大和の政権中枢から入手したのではなく、日本海から若狭、高島を経て独自で入手し、その製品を東国へ供給していた可能性もある。その際、朝鮮半島からの渡来人の存在も十分考えられる」とコメントしている。
 市教委文化財課の戸塚洋輔さんは「荒神山古墳が築かれた4世紀末と稲部遺跡の集落とは時期がかぶっており、しかも埴輪はヤマト政権の物と似ていることから、稲部遺跡と荒神山古墳のつながりが濃い可能性が高い」と話している。
 市教委文化財課は22日午後1時半~稲部遺跡の現地説明会を行う。駐車は稲枝東幼稚園、みづほ保育園、稲枝東小の各駐車場。集合場所は稲枝東幼稚園かみづほ保育園の駐車場前。参加無料。小雨決行。稲枝地区公民館では27日からパネル展「稲部遺跡群~邪馬台国時代の近江の巨大勢力」を開く。来年3月24日まで。
 ※解説=中国の歴史書「魏志倭人伝」には3世紀前半のころ、倭の国(日本)は約30の「クニ」に分かれていたと記されている。今回の発掘調査で、稲部遺跡はこの国々の1つとして「稲部のクニ」を形成していた可能性が出てきた。そして、何と言っても荒神山古墳との関連性が強くなってきたことも大きな成果だ。稲部遺跡は道路の改良工事に伴って発掘されたため、今後は道路として埋め戻される方向だが、これだけの規模の遺跡が確認されたのだから、全面的な保存に向けて道路計画の見直しを進めるべきである。市の良識ある判断を待ちたい。   (山田)

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