2012年1月11日水曜日

多景島と見塔寺のすべて

 彦根市民でも「あの島、彦根だったの」「たけしま?、竹生島のこと?」などの声があがるほど、あまり知られていない琵琶湖上の小島 多景島(たけしま)。
 彦根市八坂町に位置し、彦根港から一日1便で船も出ている(冬期は欠航)。島の特徴と島にある見塔寺(けんとうじ)の歴史を紹介する。(文・写真=山田貴之)
琵琶湖三島の一つ
 多景島は、彦根港から沖へ約6㌔いった湖上にあり、周囲約600㍍・幅約200㍍×約70㍍の小島。湖底から突き出た岩山で、岩質は花こう岩。竹が群生していることから竹島や、「神仏のおわします島」という意味で嶽島と記される時代もあった。
 多景島という名は、湖上から眺めるとさまざまな景色が見られ、また島から四方を望むと絶景であることから、「景色の多い島」より名付けられた。
 琵琶湖にはほかに竹生島(長浜市)、沖島(近江八幡市)があり、多景島と合わせて琵琶湖三島と言われている。
直澄支援で見塔寺建立
 多景島には見塔寺という寺院がある。
 明暦元年(1655)の夜、長浜にある妙法寺の住職だった日靖(にっせい)上人が夢の中で出会った貴人と島へ渡り、そこで貴人から「お前たちの住んでいる娑婆世界に、ひとつの霊場がある。お前はその地を探して住み、自行化他(修行し他をも導く)に勤め、退転してはならない」とのお告げを受けた。その後、湖上に多景島があるとの話を聞き、向かうと夢で見た島で、以降、島に常駐するようになったという。
 見塔寺の建設には、当時の彦根藩三代目藩主・井伊直澄から多大な支援を受けた。直澄は船と多くの人手を手配し、岩山の地に寺が建てられるよう、荒神山から土を運ばせ、必要な資材を運搬し寺を建立。寺は彦根城の裏鬼門の役割を果たし、釈迦堂には藩主や井伊家代々の位牌が安置されている。
巨石に「南無妙法蓮華経」
 万治4年(1661)には、日靖上人が職人に作らせた高さ約8㍍の石の塔が、直澄の援助を得て島に運ばれ、宝塔として建立。また寛文3年(1663)には鐘が作られ、鐘に刻まれた銘文は直澄の母(二代藩主・直孝の側室でもある)を姉にもつ元政(げんせい)上人作。元政上人は出家前は直孝に小姓として仕え、その後は江戸時代を代表する文人としても名をはせた。見塔寺の建立の際にも尽力したとされる。
 当時の漁師の間では「多景島から法華教を読む声が聞こえる」との噂が広がり、島に入ると高さ約16㍍・幅約4㍍の巨石から声が聞こえたため、その岩を「不思議の経岩」と呼んでいたとされる。
 そのため、日靖上人は元禄5年(1692)から約3年かけて、その巨石の上から運搬用のモッコに乗りながら「南無妙法蓮華経」の文字を刻んだとされる。題目の一文字は米一俵が入る大きさ。なお、十三代藩主・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された時には、巨石の向かって左上側から血がしたたり落ちたとも言い伝えられている。
五箇条の御誓文の柱
 大正15年(1926)4月には、明治政府の基本方針・五箇条の御誓文を刻んだ「誓の御柱」(高さ約18㍍)が建立された。
 その5年ほど前に当時、滋賀県警本部長を務めていた水上七郎が計画を発表し、広く建設資金を募り、同14年に起工式を行い、翌年完成した。青銅製で5角形となっており、各面に五箇条の御誓文の一文ずつが記されている。碑文は閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王の筆。柱の下部には菊花紋章がはめ込まれており、礎には大正天皇の皇后の鏡が納められている。
勝見住職28歳で出家
 見塔寺の勝見龍照(りゅうしょう)住職(64)には昨年末、本紙に職場体験に来ていた彦根東中生がインタビュー。
 「住職になったきっかけは」「356日間、続けていることは」などを質問し、勝見住職は「最初は電気関係の仕事をしていが、宗教にふれる機会が増え28歳の時に出家した」「(柳川町の別院で)毎朝午前3時半から2時間、お参りをしている」などと話した。
彦根港から1日1便
 多景島へは彦根港から1日1便で琵琶湖観光船「わかあゆ」号が出ている。
 ただし冬期などは欠航で、運航期間は3月第2土曜日~11月30日。中学生以上1720円、小学生860円。午後3時10分発・同30分着、滞在時間は30分で、彦根港帰着は午後4時20分。
 問い合わせはオーミマリン☎0749(22)0619。

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