2015年3月5日木曜日

織田信長が松原内湖に大船を浮かべた歴史、石田三成の佐和山惣講も

 「あまり知られていない彦根の歴史」について、県立琵琶湖博物館上席統括学芸員の用田政晴さんが先月28日、大学サテライトプラザ彦根で講演。織田信長が松原内湖に大船を浮かべた歴史などを紹介した。
 市内3大学などによる大学サテライトプラザ彦根運営協議会が企画し、用田さんは「王と武将の湖」をテーマに来場者80人の前で講演。まず県内2番目の規模の前方後円墳・荒神山古墳について、はにわと葺き石を備えたのは県内で荒神山古墳のみだとした上で「湖北や湖南の古墳は、高島など湖西に比べて前方後円墳の形が多いが、ここからは当時の大和政権の影響を受けていた地域だということがわかる」と解説した。
 天正時代に信長が松原内湖に大船を浮かべた歴史については、信長公記に記された内容を紹介しながら「多賀の山中の材木を善利川(芹川)を使って松原へ流し、棟梁らによって長さ30間(約54・5㍍)・横7間(約12・7㍍)の弁才船を作らせた」「しかし大きすぎたため、3年後の天正4年(1576)に丸子船10艇に作り変えらせた」と説明。用田さんは「信長はクロマグロのような海に浮かべることもできる巨大な船を作らせたが、琵琶湖には海ほどの浮力がないため、一度使っただけで失敗に終わり、アジのような丸子舟に分けられた」と語った。
 佐和山城については「石田三成が入城した文禄4年(1595)時に『佐和山惣講』が行われ、百間橋を整備するなど佐和山城の正面を東山道があった鳥居本側から琵琶湖側に変えた」との考えを示した一方、井伊家が入った頃に正面が変えられたとの説もあるため「鳥居本側を客用に、琵琶湖側を三成の住まいなどにした可能性もある」と述べた。
 最後にまとめとして、古墳時代初期に陸路志向から水路志向へ変わり、以降も8世紀ごろの律令期には陸路へ、16世紀末の戦国時代には水路へ、明治時代には陸路へ―と変遷していった歴史の流れを示した。

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