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2015年3月21日土曜日

井伊直弼は開国派でなく「攘夷派」、母利氏が持論

 文化プラザで14日、「井伊直弼と徳川斉昭」をテーマにしたひこね市民大学講座があり、元彦根城博物館学芸員で京都女子大学の母
利美和教授が、直弼の根本的な考えには「攘夷」の思想があったという持論を展開した。
 母利教授は幕末期の国際状況について、▽アヘン戦争でイギリスが清国に勝利▽ロシアの南下政策▽ペリーが浦賀に来航―などをあげた上で、ペリー来航時の軍艦の砲撃の射程距離が5・6㌔㍍だった一方、日本のが数百㍍しかなかったとし「当時の政権も防御できないことをわかっていた」と、開国しかなかった時代背景を解説した。
 開国論と攘夷論については、福井藩や一部の幕府役人らが「積極的開国」、直弼らが開国後に富国強兵をして攘夷に移る「大攘夷」(暫定的開国)、徳川斉昭らが「精神論的な攘夷」という3つのパターンがあったとし「直弼と斉昭は攘夷という考えでは同じだった」と説明。
 直弼が大老職に就任した直後の安政5年(1858)6月19日に幕府内で行われた評議を記録した「公用方秘録」について、幕府内のほとんどの役人が直ちに調印するべきだと主張した一方、「直弼は天皇の勅許を得ないうちは調印すべきではない」と慎重論を展開したことを紹介。しかし結局は米国との交渉役に任せたことで勅許を得る前に調印してしまったため、江戸屋敷に帰った直弼が側近の宇津木景福(かげよし)から「諸大名の意見を伺った上で決定するべきだった」と指摘されたとする記録を明かした。
 また斉昭は、幕府が将軍継嗣を公表するため諸大名に登城を命じた日の前日に、勅許を得ずに調印したことを詰問するために登城し、これが幕藩関係の秩序を乱す大罪にあたったことをあげ「諸大名の意見を聞かなかった直弼と、前日に登城してしまった斉昭の2人の失策が大混乱を巻き起こすことになった」と解説。明治時代以降は富国強兵策がとられ、その後の海外への軍事的進出につながったことから「結果的には直弼が考えていた大攘夷の時代になっていった」と結論づけた。

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