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2010年5月28日金曜日

「山崎山城」―安土城と佐和山城の中継点、歴史手習塾「戦国彦根の城郭講座」第3弾

 歴史手習塾・戦国彦根の城郭講座第3弾「山崎山城―安土・佐和山の中継点」が26日、ひこね市文化プラザで行われ、長浜城歴史博物館館長の中井均さんが講演した。
 山崎山城は在地の土豪・山崎氏の居城であったとされ、昭和61年度の県教委による調査では「土造りの城」と評価された。しかし、平成4~6年度に行われた市教委の調査では石垣が発見。
 この点について中井さんは、発見された石垣が天正4年(1576)に織田信長が築いた安土城の石垣に類似していることを指摘し「信長が直轄的な城郭として(山崎氏の居城以外の)新たな石垣の城を築いたのではないか」と解説。信長の生涯が記された「信長公記」の天正10年4月の欄に「山崎に御茶屋立置き」と記されていることも紹介した。
 山崎山の山下には、信長が敷設した道路「下街道」(通称・朝鮮人街道)が広がっており、山崎山に向かって北上した時に道が直角に曲がっている。このことに関して、中井さんは「山崎山の位置は佐和山城と安土城の中間点に位置していることから、下街道を守備する目的で山崎氏に命じて築城させたのではないか」と説明。
 「信長はその立地に着目し、平時は休息の場(茶屋)として、戦時は街道の守備のために山崎山城を築いたのではないか」と述べた。
 【山崎山城】戦国時代は佐々木六角氏の家来で在士の土豪だった山崎氏の居城があったとされるが、安土城が築城された天正年間初め(1573~79)に信長が石垣の城を築城。天正10年(1582)4月には、甲州攻めを終え凱旋する信長を山崎堅家が山崎山に茶屋を設けてもてなしている。堅家は本能寺の変では信長の安土の屋敷を焼き払い、山崎山の居城に立てこもったが、直後に秀吉に仕えたため所領を守った。その後、摂津国(兵庫県)三田に移され、山崎山城も廃城となったとされる。

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