2011年1月1日土曜日

(正月特集号)新春座談会―中山道のまちづくりは?― 高宮から杉山由昭さんと杉原祥浩さん 鳥居本から石川清和さんと宮原勇作さん

 滋賀彦根新聞社は、「中山道のまちづくりは?」をテーマに、高宮と鳥居本の代表者2人ずつを招いて、高宮町の宿駅「座・楽庵」(※旧布惣(ぬのそう))で新春座談会を開いた。
 参加していただいたのは、高宮から、高宮町史の編さんに関わった杉山由昭さん(80)と、いっしょにやろう会の杉原祥浩さん(48)。鳥居本から、鳥居本お宝発見隊代表の石川清和さん(62)と画家の宮原勇作さん(31)。コーディネーターは本紙編集長・山田貴之、写真は辻貴良が務めた。
 ―地元ではどのような活動を?
 杉山 13年間、公民館長をやってきて、高宮の歴史とその重みをひしひしと感じている。しかし、高宮が歴史と文化の町と呼ばれながら、新しい芽がなかなか出てこない。新しい時代に対応していくための接点がどこにあるのか、連合自治会やまちづくり委員会の中で模索している
 石川 地域として活性化したいとの思いから「鳥居本お宝発見隊」を立ち上げ、昨年、一昨年と宿場まつりを開いた。県立大や高宮の知恵をいただきながら、街道を赤く染めるイベントもした。鳥居本は商売をする店が少ないため、宿場まつりでは地元の人間が何かを作って販売したり、旧家を公開しギャラリーにしたりして、次に繋がる企画をした
 杉原 私の本業は瓦屋だが、中山道の町並みにほれ込んでいる一人として、いっしょにやろう会で活動している。結成10周年の記念イベントでは高宮布の再興を担当し、研究し始めたら、材料が大麻で、有名な近江上布が元々は高宮布を参考にしていたことがわかった。また、愛知川の業者から仕入れた麻で、江戸時代の旧布惣で使われていた「高宮縞(しま)」という当時の文字を再現したのれんを100本限定で作った
 宮原 18歳の時に鳥居本を出て東京で暮らしていたが、こっちに帰ってきて、鳥居本の良さが心にしみて再発見できた。今は絵を描くことを絡めて、イベントやライブで「鳥居本はいい町だ」ということを表現できればと思っている。最初は個人的な活動だったが、色々な方に支えてもらって活動していくうちに、鳥居本の人たちには歴史や文化を大切にする思いが根底にあって、大切にしていることを痛感した。これからは「文化の読み直し」をしたいと思っていて、そこに僕と同じ若い世代が入りながら活動できればと思っている
 ―両町の共通点は歴史遺産をいかに生かすか、にかかっています
 杉山 中山道の高宮に宿場が置かれたのは1602年(慶長7年)で、それまでは東山道として、四十九院(豊郷)と小野(彦根)が宿場だった。当時の高宮には、高宮城のほか、円照寺や、高宮(こうぐう)寺が開山されていて、文化人の往来もあった。宿場が置かれてからは多賀大社の門前町として、また高宮布の集散地として賑わっていた。大正・昭和半ばまでは、ほかの村から多くの人が高宮を訪れていたが、昭和の終わりから、次第に衰退していった。もう一度、高宮をいかに賑わせるかとのことで、高宮商工繁栄会(商工会)やいっしょにやろう会、連合自治会、まちづくり委員会などががんばっている。若い皆さんには、温故知新という言葉通り、古きを大切にしながら、新しい町おこしをしてほしい。
 杉原 高宮は、新しいことをやろうとしてもなかなか動きにくいため、彦根信金(現・滋賀中央信金)の店長(当時)の呼びかけで、地元の若手50人でいっしょにやろう会を立ち上げた
 ―団体をまとめる必要がありますね
 杉原 確かに横のつながりはあまりないが、まとめていきたいという思いはある。そうすれば、鳥居本との連携も出てくるかもしれない。鳥居本の住民が布惣に高宮布を買いに来るという物語も伝えられており、先日の高宮でのイベントではその寸劇も演じて、好評だった
 石川 高宮から鳥居本にかけては古い建物が多く残っており、その名残は残していきたい。人口が減少し空き家が増えているが、是非、それぞれの地域に住んでほしい。鳥居本の場合は、商店が少ないため、商工会もない。宿場まつりでは古い町屋を開放して多くの方に見ていただくことができた。鳥居本側の佐和山城下の発掘調査も行われ、多くの人が訪れるようになり、地元の人の意識も変わりつつある
 宮原 鳥居本は商売をされてきた名残を目で楽しむことができる。空き家がたくさんあるのも、見方によっては魅力の一つで、田舎の暮らしも残っている。外から見て、素敵だと思われるようなまちづくりを目指していきたい(続きは本紙1月1日号で)

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