最も古い記録として、元禄15年(1702)の馬場家文書によると、「問屋、庄屋など18人の高宮村の役人が高宮橋から得られる徳分を個人に売り渡す」と書かれており、橋賃がとられていたことがわかる。ほかに明和4年(1767)の文書では「人馬通行用の丈夫な橋が架設されたが、幕府役人の通行時のみに使用され、普段は片付けておく簡易な橋だった」と記されている。
そんな中で天保3年(1832)に、高宮宿の有力者、江畑茂平、上田与三右衛門、馬場新蔵、馬場庄蔵らが「無賃橋」の建立を目指し、橋賃を徴収する権利・高宮橋株を買い取り、無賃の橋がかかった。現在の橋の両岸には「『むちんばし』、『天保三年』」と彫られた標石があるが、これは建立当時のものとされる。
江戸時代後期の橋の姿を描いた宿場絵図もいくつか残っており、板を架けただけの仮橋から、構造が複雑になっていく経過が読み取れる。
明治13年からは県に新しい橋の建設を求めて募金活動が開始。同15年には公費の補助を受けて新しい橋が出来たが、翌年以降、洪水で度々壊されている。同25年に全長約125㍍・幅約3・6㍍の木造の橋が作られ、同29年の洪水で被害にあったが、県による修復を重ねて約40年間使われた。
昭和5年(1930)、高宮町議会は老朽化した橋の新設を県に申請。鉄筋コンクリート造りの全長約117㍍・幅約6㍍の橋がこれまでの橋の上流部分に建設され、「高宮橋」と命名された。竣工式は昭和7年9月12日で、夕方からは高宮橋竣工祝賀第5回全国煙火競技会が開催された。
完成した当時を知る地元住民の文章によると、「作業員がセメント、砂利、水を加えて、スコップで交互にリズミカルに流し込む作業を何回も繰り返していたのを覚えている」と記している。
その後の洪水による被害は昭和28年と同40年で、特に40年の時には橋脚が破損し通行できなくなった。同52年に橋脚の補強工事が行われた際には、石の地蔵が発掘され、「無賃橋地蔵」として現在も橋のたもとに祀られている。同62年には中学生の通学用として高宮橋側道橋が架設された。【山田貴之】(参考文献=「新高宮町史」、「高宮の軌跡」)
0 件のコメント:
コメントを投稿