小生の少年時代や取材などの経験から、(議員や公務員、サラリーマンなどと同様に)教師もピンからキリまであり、現代は優れたピンの方が寡少であるといえよう。そのピンからキリの境界の基準の一つが、子どもへの「愛情」と教育への「情熱」であり、「けんか」と判断した大津の中学校の教師たちは教育委員会同様 公務員的な事なかれの教師であり、キリの部類に入るのであろう。
なぜこのような体たらくな教師たちが増えたのか。確かに一人一人を見ると、愛情や情熱を感じる教師はいる。しかし教育委員会と保護者の板挟みにある学校という組織で見た場合、上層部や組合におびえ、生徒や保護者に配慮する―、そういった戦々恐々と教壇に立っている教師がいるのも事実であろう。
小生の少年時代は、教師に物を言える子どもはおらず、保護者も限られていた。わんぱくだった小生ら悪童は、廊下に立たされたり、胸ぐらをつかまれたり、ほおをひっぱたたかれたり、尻を竹刀でたたかれたり、今ではタブーにもなった「体罰」を教師から日常的に受けていた。
学校教育基本法第11条では「校長および教員は、懲戒として体罰を加えることはできない」―と定めており、「一応に」禁止してはいるが、小生としては過去の大半の体罰に愛情を感じ、感謝をしている(ただし、教師自身の感情を抑えるためや威厳を保つための「暴力」的な体罰もあったのは事実だが)。
いじめに関しては、小生の回りでも小中学生時代、いじめがあり、特に加害者への教師の指導は厳しかった。そこには体罰もあり、そのお陰か、いじめから暴行までに至る事案はなかったと記憶している。
子どもは、身体面は徐々に成長していくが、精神面は未熟であり、「人間」に成り切れていないともいえる。その精神的弱さのほか、ストレスや孤独感のはけ口がいじめる行動につながっているのではないだろうか。
その子どもたちの弱さを補うのが教師(大人)の厳格さであり、その最終手段として体罰があげられよう。体罰=悪だと、短絡的に結び付けるのではなく、愛情ある教育の最終段階に体罰が用いられることに、小生は賛意を示したい。【山田貴之】
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