彦根藩初代藩主の井伊直政はなぜ、徳川家康の筆頭家臣にまで上り詰めることができたのか―。彦根城博物館の学芸員として22年間、直政をはじめ井伊家を研究してきた歴史研究家の野田浩子さん(47)=佐和町=がこのほど、直政の生涯をまとめた本「井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡」を発刊。記者発表では小説などで創作された人物像ではない、真の直政像について学術的な視点から解説した。
直政は15歳で家康に仕えたが、背景には養母の井伊直虎や浜松・龍潭寺の南渓和尚らが出仕させようと考え、家康が鷹狩りに出た際に直政に声をかけて家臣にしたとされている。その説に対し、野田さんは江戸時代前期に大名らが幕府に提出した古文書をまとめた「譜牒(ふちょう)余録」から、近藤康用ら井伊谷三人衆や小野但馬など7人が井伊家の政務を担っていたという記述を新たに確認。彦根城博物館所蔵の「侍中(さむらいじゅう)由緒帳」なども参考に、井伊家の重臣たちが下準備をして直政を家康に出仕させ、出仕以降も直政を支えたことがわかったという。
また直政は「井伊の赤備え」で知られるように、軍事面での活躍により徳川四天王に上り詰めたとされる。これに対し、野田さんは直政が家康に評価された点として▽井伊家は西遠江の領主で、元々は徳川家よりも名門で、直政はその当主という立場で徳川家に入った▽北条氏との和議交渉の使者を務めたほか、人質だった大政所(豊臣秀吉の母)を警護して気に入られた―という「家柄と交渉能力」を提示。この2点を踏まえて、「家康は直政を徳川家を代表する『外交官』にし、大名との親密な関係を築かせて、後の関ヶ原合戦での勝利に導いた」と説明した。
本は、幼少期から家康への出仕・家康直轄軍の井伊隊の創出までの「戦国武将への飛躍」、大政所の警護・北条を屈服させた小田原の陣・箕輪城主の「豊臣政権下での直政」、秀吉没後の危うい政局・家康の名代を務めた関ヶ原合戦・戦後処理・佐和山城主の「八面六臂の活躍をみせた関ヶ原合戦」の3部で構成。
野田さんは「これまでは小説や逸話で創作の世界に基づいて語られることが多かったが、確実な史料に基づいて、なぜ徳川家の筆頭家老になったのかなど、直政像についてこの本で答えを出せたと思う」と話していた。
本は戎光祥出版(東京都千代田区)の中世武士選書第39巻として刊行。1冊2700円。234ページ。
※【野田浩子】京都市出身。平成7年、立命館大学大学院文学研究科博士課程前期修了後、彦根城博物館学芸員となり、今年3月まで務めた。現在はフリーの歴史研究家として彦根の歴史を研究しており、執筆や講演活動をしている。