彦根の滞在型観光の方策を協議してきた「ひこね集客戦略懇話会」は昨年、井伊直弼と開国150年祭後のテーマを「戦国」にすると決めた。滋賀彦根新聞では、その中心となる「佐和山城」と「肥田城」について、それぞれの城に詳しい方々による座談会を、花しょうぶ通りの「戦國丸」で行った。
出席者は、有限責任事業組合「ひこね『街の駅』」駅長・小杉共弘さん、崇徳寺(肥田町)住職・高瀬俊英さん、佐和山城研究会代表・田附清子さん、市教委文化財課・谷口徹さん(コーディネーター・山田貴之)。
―肥田城跡の魅力を教えてください
高瀬 肥田城跡の魅力は一つも無いんですよ。というのも彦根城のような遺構がないので、特色をあげるのなら、平地に建った平城(ひらじろ)という事。彦根城よりも100年以上前の城で、石垣や城壁、瓦
がない、いわゆる中世の城だった。
谷口 城というか館の延長上といえる。そのため戦が多くなり、堀や土塁を築いていた。平城の一つの典型。
高瀬 遺構は一つもないが、小字の一つ一つが歴史的な意味を持っている。江戸時代に入り彦根城以外の城が壊され、肥田城も慶安3年(1650)に取り壊されたという記録がある。その記録を見ると、堀を埋め、土塁を崩し、開墾して新田を作ったとされる。県教委が調査されたが、ほとんど何も残っていなかった。
谷口 周辺の調査は終わったが、中心部分はしていないため、何か出てくる可能性はある。土塁と堀の跡も残っているので、本当は全体を文化財にしたい思いがある。
高瀬 彦根かるたに「水攻めの歴史に残る肥田城跡」とあるように、現在の聖泉大学の北の方には六角氏が堤防を築いていた跡もあった。攻める内側から土盛りをしたと言われる。
谷口 田んぼの下を発掘したところ、土を取った跡が見つかった。その面積を計算すると、高さ2㍍ぐらいの土塁があったとみられる。
―佐和山城の魅力は
田附 私は佐和山のふもとの古沢町で生まれ育った。古図によると、私の実家は「餅木谷(もちのきだに)」と呼ばれる場所にあった。いわゆるそこは石田三成の屋敷があったと言われている場所で、そこで生まれ育ったことが何かの縁なのかはわからないが、子どもの時から家の裏には城があって、城主は三成だったと聞かされてきた。子どもの頃は普通に里山で遊ぶ感じだったが、その時に「何でこんな所が平地なのだろう」「何で山の斜面に溝が掘ってあるのだろう」と子どもながらに不思議に思っていた。でも大人になって、それが遺構であることを知り、佐和山城に興味を持ち始め調べてきた。城跡の概要図や古図をもとに山中を歩く中で、こんな所に石垣があるとか、草むらがかなり広い曲輪跡だったとかを見つけていった。
小杉 2000年ごろだったと思うが、補助金を頂いて彦根の新しいもの見つけようという彦根市の新世紀補助事業があり、夏川記念館で「彦根再発見」をテーマに田附さんに講演をお願いした。三成について当時は悪者の描き方をされるのが多かった。だから佐和山や三成の事を取り上げる事は、地元でありながらも取り上げることはなかった。(三成のように)人気のない武将よりも、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」とうたわれるように、島左近が優れた武将であったことがわかっていた。私は当時「彦根左近の会」を作っていたが、その時に花しょうぶ通り商店街では、よそと同じ事をしてもなかなか活性化は難しいという考えから、佐和山城に目をつけた。実際、活動してみて、全国的には彦根城も誇りだが、石田三成や佐和山城はそれに負けず劣らずの人気があり、知名度もあることがわかった。勝った者がすべて正しい、強いという世の中だったのが、今はネット社会により色んな情報が氾濫している。また勝ち組、負け組という世相も反映してか、負けた方にも色々と志があった、すばらしい人がいたということを再発見してもらえる世の中になった。(続きは本紙紙面・正月号で)