本紙の平成24年の記事では大正時代から昭和初めまでに全国紙や地方紙が報じた彦根城の桜に関する内容を紹介。そのうち京都日出新聞が昭和12年3月15日付で、その年の2月11日の彦根市制施行を記念し「24年前(大正2年)に金亀公園(桜場駐車場付近のことと思われる)に桜を植えた八田宗三郎が桜500本を寄贈し、市は長曽根公園に植樹」と報じていたことを取り上げた。
この文面からは明治37年(1904)から翌年にかけての日露戦争での勝利を記念し、明治39年に宗三郎が桜を寄贈し、金亀公園の地にあった彦根公会堂に植えられたことがわかる。写真は毎日記者から受け取った宗三郎が幸太郎に贈った物とみられる。
実際に昭和35年4月13日の毎日新聞の記事によると、宗三郎は彦根市袋町(現・河原)出身で、城東小を優秀な成績で明治21年に卒業し、12歳で伊藤忠や丸紅へでっち奉公に入った後、23歳の春に独立し大阪東区でラシャ(織物)屋を営み、資産家になったという。日露戦争で勝利した翌年の明治39年5月27日に「錦を故郷へ飾り」、楽々園で大園遊会を催し、彦根公会堂に桜の苗300本を記念植樹。その後、昭和12年の彦根市制の実施を記念し桜の苗1000本を「内堀回り彦根港湾から千代神社に移植」と書かれている。
田中さんによると、祖父の幸太郎は明治30年9月30日生まれで、10代初めから後半にかけて八田宗三郎商店で奉公し、帰郷後の大正時代から昭和10年代まで本町で米屋を営み、戦後は保険代理店を務め、昭和39年12月8日に67歳で亡くなったという。宗三郎の20歳年下で、奉公仲間と「八田会」を結成し、奉公後も各地で定期的に交流していた。田中さんは「宗三郎が桜の苗を寄贈した昭和12年の時は、祖父も彦根にいたため、もしかしたら一緒に植えた桜が今も残っているかもしれない」と話していた。本紙記者が今月6日に金亀公園内を確認したが、古木は見つからなかった。
市教委歴史民俗資料室室長補佐の井伊岳夫さんは「彦根城が江戸時代の軍事的な機能から、明治時代には観光を目的になっていった歴史的変化がわかる点で興味深い情報だ」と話している。
(※=現在の金亀公園は金亀球場や競技場などのエリアを言いますが、井伊直弼公の銅像がある金亀児童公園や桜場駐車場、玄宮園なども金亀公園内に入るため、桜が植えられたとみられる桜場駐車場も記事では金亀公園で統一しています)。
(※=現在の金亀公園は金亀球場や競技場などのエリアを言いますが、井伊直弼公の銅像がある金亀児童公園や桜場駐車場、玄宮園なども金亀公園内に入るため、桜が植えられたとみられる桜場駐車場も記事では金亀公園で統一しています)。
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