明治政府は明治5年(1872)、当時の最大の輸出品だった生糸の生産向上と技術指導者の育成を目的に、洋式の機械を備えた模範工場として全国で最初となる製糸場を富岡に建設。
彦根からも製糸技術を学ばせるため、明治8年ごろから多くの士族の子女が同製糸場に送り出された。その中には、彦根藩十三代藩主・井伊直弼の死後、主君の菩提を弔い続けた彦根藩士・遠城謙道(おんじょうけんどう)の妻・繁子がおり、生活に困窮していたことを知った同製糸場長は繁子を工女取締役に抜擢した。
平田に彦根製糸場
一方で、彦根では旧彦根藩士の武節貫治と磯崎芳樹が明治9年4月13日に近代的な製糸工場の建設を国と県に要請した。しかし、明治政府と対立していた西郷隆盛らに同調する旧彦根藩士もいたため、資金が西郷らに流用されることを危惧した政府は彦根に密偵を送り探っていた。
西郷らの敗北が濃厚になると、国と県は彦根への製糸工場の建設計画を進め、県の担当課長が富岡製糸場などを視察。明治10年10月に、彦根藩元家老・宇津木家の下屋敷跡があった平田村の平田川沿いに工場を建設し、同11年4月2日に竣工、6月16日に開業した。
その後、彦根製糸場は三井物産と生糸輸出の契約をするなど経営を軌道に乗せ、明治19年には5年前から本格化した民営化の動きに応じ、最後の第十四代藩主・井伊直憲の弟・智二郎に払い下げられ、民間企業となった。以降、同35年に廃業するまで経営された。
なお彦根には、明治16年7月に金亀町に塚本製糸場、同19年8月に犬上郡高宮村に堤製糸場、同20年7月に西馬場町に山中製糸場、高宮村に馬場製糸場が設立された歴史もある(参考=新修彦根市史・通史編近代)。 【山田貴之】
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