元々は明徳4年(1393)に本願寺派の寺として犬上郡後谷村(多賀町)に築かれたが、延徳2年(1490)に彦根の山之脇の地に移転。天正元年(1573)に織田信長が浅井長政の小谷城を攻めるため、琵琶湖上を北上している際には、当時の十代住職だった了縁が石寺の城から明照寺の一門衆らと一緒に信長軍を攻撃した。信長の怒りを買った了縁はその年の8月に26歳の若さで自害している。
十一代の了宗は慶長4年(1599)に寺を現在地に移転。大坂の陣が起こり、井伊直孝が出陣する際には、河瀬の法蔵寺、豊郷四十九院の唯念寺、薩摩の善照寺と共に留守中の城内庶務、大坂方や隣国の一揆からの防護という重要な任務を依頼された。
十四代の亮隅(河野李由)の時代の元禄4年(1691)には芭蕉が明照寺を訪れ、平田の地に移転して約100年が経過することから「百歳(ももとせ)の景色を庭の落葉かな」とうたい、その句碑が門の前に建っているほか、亮隅が師を慕って設置した笠塚も庭に残っている。亮隅は元禄14年(1701)に本堂を再建している。
明照寺は本堂、書院、経堂、鐘楼、手水舎、門、太鼓門などが建っており、そのうち鐘楼が元文2年(1737)、門が宝暦10年(1760)に建てられたとされ、華やかな意匠の彫刻も見られる。かつては末寺60、門徒約8000の規模を誇る本願寺派の別格別院で、境内は約2万平方㍍の広さだったとされるが、現在は約1万0477平方㍍になっている。本堂と書院は昭和58年8月25日に火災で焼失したが、同61年11月に再建。庭園はほぼ江戸期の形式のままで、昭和48年に市の指定文化財になっている。現住職は二十四代の六雄(むつお)照慶さん(55)。
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