謙道は文政6年(1823)12月12日、彦根藩の鉄砲足軽・善利(せり)組(現・芹橋2)の父・兵之助の長男として誕生。15歳で彦根藩に仕え、善利組に入った。銃の腕は常にトップだったという。
安政7年(1860)3月3日の桜田門外の変後、政権が代わった幕府は文久2年(1862)8月、彦根藩の京都守護の任を解き、近江国の神崎・蒲生2郡の上知を命じた。これに謙道らが反発し、有志と計8人で幕府の老中・井上正直邸に乗り込み、抗議の自害をしようとするが、失敗して彦根に送還されて翌年まで謹慎処分となった。
謙道は出家を試みるが、武士が許可無く僧になることが禁じられていたため、再び200日間の謹慎を経て隠居を命じられたが、慶応元年(1865)に井伊家の菩提寺でもある清凉寺で出家を果たした。その後、豪徳寺に向かい、明治34年(1901)5月12日に亡くなるまで37年間にわたって直弼の墓を守り続けた。
企画展では謙道に関する資料40点と謙道の墓碑などの写真4点を展示。そのうち明治11年の建白書は、その年の5月に暗殺された大久保利通がその翌日に官位の追贈を受けたことから、直弼のえん罪を晴らすために作成したもので、太政官や宮内庁、東京府知事に提出したが、受け入れられなかった。
明治28年の73歳の写真は東京・麹町で開業した古賀暁(さとし)が掃除をしている謙道を写したもの。謙道は井伊家から拝領した直弼愛用の茶室を墓近くに移して住みながら、毎日丁寧に墓所の掃除をしていた。謙道は絵も描いており、明治34年に初代の直政の彦根入り300年を記念して行われた藩祖三百年大祭時には佐和山神社から彦根城まで渡る神輿の様子を墨で描いた。当時、病を患い、自身の死期を5月か6月と予言し、その通りに5月12日に79歳で亡くなったという。
企画展の開館は9月15日までの午前8時半~午後5時。ギャラリートークが22日午前11時~と午後2時~ある。
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