江戸時代の名残を消すため明治6年(1873)に廃城令が打ち出され、彦根城内の一部も解体され始めた同11年、明治天皇の巡幸に同行していた大隈は彦根城の美しさにひかれ、天皇に保存を懇願。これにより、彦根城は現在の形のままで残ったとされる。
日出(京都)新聞の明治32年6月3日付によると、大隈は総理大臣を辞職した翌年の明治32年6月1日にも、総選挙を控えた党員仲間を応援するため彦根を訪問。正午からの楽々園での歓迎会に出席した後、彦根城に登り、午後5時に列車で東京へ帰っている。
大隈の帽子については、一部の市民の間で楽々園か彦根城に忘れられたもの、と伝えられていた。しかし、図書館に保管されていた帽子の近くには、大正14年7月28日から同15年9月3日まで彦根町長を務めた堀部久太郎が、昭和13年4月17日付けで書いた記録文も添えられる形であった。
それによると、「(堀部が出馬した)大正6年の総選挙の時に大隈から帽子をもらい、大隈が本好きだったため、図書館に寄贈する」と書かれている。なお当時は首長が図書館長を兼任していたため、堀部は第5代目(大正14年7月28日から翌15年8月31日まで)館長も務めている。
大隈の帽子が図書館に保管されていることは図書館や市史編さん室の職員、一部の市民しか知られておらず、また大正時代に寄贈されていたことも今回初めて判明した。市教委文化財課は「課としても大隈の帽子が図書館にあることを初めて知った。貴重なものであるのは間違いない」としている。
【大隈重信】佐賀藩出身。明治維新では大蔵卿・参議など歴任するが、いわゆる明治十四年の政変で失脚。翌年、立憲改進党を結成し、その年の10月に東京専門学校(現・早稲田大学)を創設。黒田清隆内閣で外相を務め、安政五ヵ国条約の改正に尽力するが、反対派に爆弾を投げられて右足を切断する重傷を負う。同31年6月に板垣退助らと憲政党をつくり、6月30日には内閣総理大臣となり、初の政党内閣(通称・隈坂内閣)を発足。組閣から4カ月後に辞職し、同40年に政界を一時引退するが、第一次護憲運動の際に復帰し、大正4年(1914)には第二次大隈内閣を組織。その年の7月に第一次世界大戦が起こり、翌年10月に内閣を総辞職し政界から完全に引退。同11年1月10日に早稲田で死去。
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